illustration:斉藤ナミ

「あれ?もしかして、今日って全員でご飯食べれる?久しぶりに外に食べに行く!?」

こんな会話が起こり、数カ月ぶりに家族全員でスシローにお昼ご飯を食べに行った。

仕事で家に居る時間が少なく、週に1度、顔を合わせるかどうかといった程度の激レアキャラな夫と、学校、部活、遊びで、外に出かけてばかりの子どもたちが一堂に揃うことが、最近では珍しい。

夫や息子たちは「えび20貫!サーモン20貫!マグロ20貫!」のように、欲望に忠実なのか面倒臭がりなのかよくわからない、何かの企画みたいな頼み方をするので、席についてから食べ終わるまでがめちゃくちゃ早い。

私は私で、フライドポテト、若鶏のグリル、味噌ラーメンなど…おまえそれ寿司屋に来る意味あるのか?というようなミーハーなものばかり頼むので、近所のスシローのスタッフには、トータル全員変な家族、と認識されているかもしれない。

そんな具合で、せっかくの外食から早々に帰ってくると、子どもたちはやはりいつもの友だちと公園に出かけ、夫は仕事へ戻っていった。

家族の時間はあっという間に終わってしまい、またそれぞれの世界へ。

あーあ。もう行っちゃうのか。ひとりポツンとリビングに残り、ちょっと寂しい。

一緒に暮らしていても別の人生を生きている

最近、我が家では私が把握していないゲームのグッズや、カード、文房具などが目につくようになってきた。子どもたちがお小遣いを貯めて自分でものを買うようになったからだ。

ちょっとずつ彼らの「もの」があらわれだして、ジーンときてる。あんまりじっくり見ちゃいけないような気もして、なるべくそっぽを向いて片付けている。

夫の持ち物なんて付き合いだした当初からずっと把握していない。そこらへんに転がっている夫の趣味のものを見かけたところで、全く別のゲームのアイテム、という感覚だ(大量にある薄いプラスチックの魚は釣りグッズらしい。そんなにいらんやろ。釣りに行く夫をこれまで一度も見たことがない)。

けれど子どもたちの「もの」は、今まで全て私が管理して把握していたぶん、その変化に心が揺れる。

一緒に住んでいても、それぞれに別々の人生を生きているんだなぁ、と実感した。

「結婚したら寂しくない」はただの幻想

独身の頃、私は幻想を抱いていた。

結婚して自分の家族ができれば死ぬまで孤独を味わうことはない。私は「母親or妻」とジョブ進化して、この「独身」というジョブの特質である漠然とした寂しさや不安からは解放されるんだ。今寂しいのは独身だからなのだ、と思っていた。

illustration:斉藤ナミ

ところが実際に結婚して子どもができても、同じくらい寂しいと感じる。

それどころかひとりで育児をしていて社会と切り離されていた(ように感じた)数年間は、独身の頃よりももっと孤独を感じていたかもしれない。

子どもと居ても、そこにいる私は”親としての私”だ。私個人の孤独感や寂しさは埋められない。

夫と婚姻契約を結んだって、子どもが24時間そばにいたって「孤独」はあるのだ。

人生のライフプランを考えたときに、「孤独でいたくない=家族を作る」を最優先に設定してしまったのだけれど、そもそもそれが間違っていたのかもしれない。

無理をして誰かと一緒に居るのも居心地が悪い

孤独ってなんなんだろう?

「孤独」を辞書で引くと「一人ぼっちなこと」と書いてある。

私もそれが孤独だと疑わなかった。誰かといれば、家族がいれば孤独ではないと信じていた。

けれども、ひとりの方が心地いいときはたくさんあるし、逆に人といるのに「孤独」を感じることも多い。

誰かといるときは、客観的に見て「わーい。私はひとりぼっちじゃないぞ!今だけは陽キャに見えてるはずだぞ!」と最初は嬉しいが、しばらくたつと自分の感情に視点が戻ってきて、「誰かと一緒にいても、結局ひとり」ということをひしひしと感じることも多い。

どうにも話が合わなかったり、好かれようと無理したりしてしまううちに、自分の心がだんだん閉まっていくことに気づく。

だめだ、やはり他人と居るのはしんどい…と感じることは日常茶飯事で、そのたびに孤独を実感する。

どんな人と、どんな場所に居ても、自分の心が閉じているときには居心地が悪い。

もうあいつは孤独でかわいそう、と思われてもいいから、ひとりでおうちのソファでコーヒーを飲み、ミスドのチョコファッションを食べながら心ゆくまでナルニア国物語を読んでいたいんだ!

illustration:斉藤ナミ

そのままの自分でいても楽しいと感じる相手と居れば孤独はやってこないかと考えると、それもまた違う。

楽しくて幸せな時間もあるけれど、もちろん自分とは違う人間だし、その人の人生がある。

結局、人間はひとりなのだ。

きっとそれは相手が家族でも、家族以外でも同じことだ。

「孤独」は悪いことじゃない

自分だけで自分を満たすことができない私は、どうしても他人に寂しさを埋めてもらおうとしてしまう。他人に褒められたり求められたりすることで自分を保とうとしてしまう。けれど、他人を利用して一時的に満たされても、いつまでも自分を生きられない。

他人を通してではなく、自分で自分を認められるようになりたい。

もっと自分に自信を持って自分らしく生きたい。私ならいける!と信じてあげたい。よし、いいぞ!行こう!と、背中を押してあげられるのも、やったね!と褒めてあげられるのも自分自身だ。

人生はいつまで経っても孤独な気がするけれど、それは悪いことではなくて、きっとそういうものなんじゃないだろうか、と最近は思う。

「誰かと居れば孤独じゃない」と思い込んでいた若い頃の自分の首ねっこをつかんで、この文を読ませてやりたい。全然違うからね?あと、あんたが眉毛抜きすぎたり、日焼け止めサボったりしたせいで、10年後、死ぬほど後悔してるからね?

しかし、家族を作っても孤独だと知っていたら結婚を選ばなかったか…?と考えてみると、たしかに他の人生もあったのかもしれないけれど、この人生だったから子どもたちに会えたわけで、それだけは絶対によかった、と思う。

樹木希林さんの名言「結婚なんてのはね、若いうちにしなきゃダメなの!物事の分別がついたらあんなことできないんだから!」という言葉には、深く頷けるものがある。さすがっす、希林さん。

我慢して生きることを、誰も私に望んでいない

今のこの生活を選んだのは他の誰でもなく私だし、全部、自分で決めたことだ。

子どもが小さくても、自分らしくバリバリ仕事をして生きている母親もたくさんいるし、家事と育児と仕事をバランスよく選んで生きている母親もいる。

結婚や出産をしない生き方を選択し、人生を謳歌している人だっている。

結婚をしている人も、していない人も、離婚をした人も、どんな人も、どうか、自分の幸せのために、自分で決断して、選択して、人生を自分らしく生きられているといいな、と思う。

「子どものお世話が私の生活のすベて」みたいな時期を過ごしたことで、一瞬、もうこれからの私の人生は、母として妻として子どもと夫を支えて生きる我慢の人生なのだな…と錯覚をしてしまったこともあったけれど、それは間違っていた。

子どもたちはあっという間に私のお世話なんていらなくなってしまった。そもそも、母として生きる人生なんてちゃんちゃら嫌だ。

子育てに私の人生を費やすつもりなんてないし、夫の人生を支えるつもりも、やりたいことを我慢するつもりも、今はない。きっと彼らも、そんな生き方を私に望んでいないだろうと思う。

子どもたちには、どんな選択であれしっかり考えて選んで、失敗して、学んで、自分らしく生きていって欲しいと願う。

私もまた自分の人生を、しっかり自分で選んでいかなきゃ。

今あらためて、ひとりで生きる覚悟をしたいと思う。

これからもまだまだ続いていく人生を、自分らしく生きていく。

おしまい

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ランドリーボックスでは特集「#ひとりのわたし」をスタートしました。

性別に限らず、私たちには様々な「役割」があります。

ですが、その「役割」をまっとうすることだけが自分の人生ではありません。

私たちには様々な役割と同じように、様々な価値観や欲求が存在しています。

あらゆるジェンダー規範に囚われることなく、一度きりの人生、わたしの人生を謳歌してほしい。

わたしを謳歌するということは、自分で選択し、自分の足で前に進むということでもあります。

女として、妻として、母として、子供としてではなく、ひとりの「わたし」として。

ただ、それは決して、ひとりきりであるということではありません。

そんな想いをこめて、ランドリーボックスでは、それぞれの「ひとりのわたし」に関するコンテンツをお届けします。

目の前に続いていく道が、「ひとりのわたし」たちが手を取りあえる未来に繋がりますように。

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