「女はオナニーなんかしない」
令和の今でも、本気でそういう男性がまだまだいることに私は愕然とする。
「いや、しますよ」と反論すると、それは特殊な一部の人だけだと言われてしまう。
マスターベーションをする女性は特殊な存在なのか?
決してそんなことはないと思う。むしろ、したことがないほうが不健全だと思っている。
そんな私だが、マキエマキとして活動を始めた頃から、マスターべーションをしなくなってしまった。それはたぶん、性に向くエネルギーが制作に向いてしまっているからだと思うのだが、マスターベーションをしないでいることは、生命力の減退でもあるかのようで、少し寂しい気持ちになっている。
前置きが長くなってしまったが、女性でもマスターベーションはする。
そのときにオカズが必要か否かという話も出るが、私はオカズ必須派である。
今はインターネットのおかげで、エロコンテンツにアクセスすることが容易な時代になった。しかし、私が「お股を触るとなんだか変な気分になる」と気づいた昭和の時代には、女の子がエロコンテンツにアクセスするのは、とてもハードルが高いことだった。
そんな時代にどんなものを、どうやってオカズにしていたか、今回はそんなことを振り返ってみたいと思う。
初オカズはヒロインが拉致されるシーンを脳内再生
私が生まれてはじめて「お股を触るとなんだかヘン。でも気持ちいい」に気づいたのは小学校に入る前だったと思う。
人生初のオカズは、アニメや戦隊モノのヒロインが拉致されるシーンの脳内再生だった。
当時の戦隊モノでは、なぜか、頻繁にヒロインが悪の組織の秘密基地内に拉致監禁されていた。ロープや拘束具で自由を奪われ、口を塞がれたヒロインの前にワルモノの親玉が現れる。彼女たちは一様に諦めが悪く、状況が悪くなっても抵抗を続けるのだが、なぜかその姿にエロを感じていた。
ルパン三世(第1シリーズ)の第1回、峰不二子が囚われて拘束されるシーンは、私のようなすけべえなマセガキにとって最高のプレゼントのような映像だった。
そんな映像の記憶をたぐりながら、母の目を盗んでこっそりお股に手を伸ばしていた。
週刊誌のワードを見るだけで妄想快感ワールドへ
年齢が上がり、脳内再生だけでは飽き足らなくなると、現物として目にするものが欲しくなる。まず、ターゲットになったのは母親の読んでいた女性週刊誌だった。
数ある女性週刊誌の中でも、群を抜いてエロに特化していたのが『微笑』だった。母が『微笑』を買っているのを見つけると、心のなかでガッツポースをしていた。
母が不在になると、喜々として隠し場所を漁っていた。バタ臭い顔のモデルが微笑む表紙のページを開くと「セックス」「オーガズム」「マスターベーション」などの文字がこれでもかとパンチを繰り出してくる。書いてあることの殆どが理解できなかったが、そんなワードを浴びるだけで、めくるめく妄想快感ワールドに入り込めた。
しかし、『微笑』盗み読みは親バレの点でハイリスクだったので、次のターゲットは少年マンガ誌となった。
昭和40年代後半から、少年マンガ誌では、永井豪の『ハレンチ学園』がけしからんと話題になっていた。しかし、それがかえって少年たちの興味を引き、あとに続くようにエロを盛り込んだ作品が発表されるようになっていった。
吾妻ひでおの『ふたりと5人』、山上たつひこの『がきデカ』は、お小遣いでこっそり買って、本棚の奥に隠しておかなければならない作品だった。「漫画の神様」手塚治虫も例にもれず、エロを描いていた。
そんな少年マンガのエロの開花期の中、特に忘れられないキャラクターは、『愛と誠』の砂土屋俊だ。あのルックスとムチさばきは、SMスナイパーも真っ青なエロコンテンツに該当するのではないかと今でも思う。
砂土屋俊のムチで着ているものを剥ぎ取られ…剥ぎ取られてから先は具体的に想像ができないのは、所詮小学生なのだが、そういう辱めを受けることを想像すると、一段と気分が高まった。
少女マンガは「大人のセックス」が描かれていた
少年マンガでエロを含んだ作品が定着する頃、少女マンガにも性的描写を含んだものが登場する。
里中満智子の『アリエスの乙女たち』は、当時の少女たちにとって堂々とエロが見られる話題作だった。現在のレディコミの前身とも言える『月刊mimi』に連載されていた同氏の『季節風』は、クラスの女子のほとんどが血眼になって読み漁った。
少年マンガの「ハダカさえ描いてあればエロ」といった感じの描写とは一線を画す、大人のセックスがそこには描かれていた。
中学生になると、富島健夫を始めとした、コバルトシリーズが選択肢に加わる。コバルトシリーズは今で言うラノベの前身だ。
小説なので、机の上に出しておいても親バレリスクが低く、格好のオカズとなった。特に、ハイティーンの実体験ルポ「顔のないシリーズ」は年齢が近い実在の少女たちの体験談とあって、感情移入がしやすかった。
コバルトシリーズで味をしめた私は、さらなる刺激をもとめてフジミロマン文庫に手を出すが、さすがに実際の性経験のない身にはハードルが高く、一冊でやめてしまった。具体的なセックス描写が理解できなかったのだ。
少年マンガや少女マンガと違って、具体的な性行為が文字で書かれていることで、性行為とは性器を挿入するだけではなく、性器を舌で弄んだり、指を入れたり、道具を使ったりするのだと学習した。
タンポンさえも使ったことのないおぼこ娘にとって、それは未知すぎて、イスカンダルよりも遠いどこか知らない世界のことのように思えた。
セックスがリアルに感じられないからこそ、イスカンダルの先までオカズ探訪の旅に出られたのだ
高校生になると、ロストバージンを済ませた同級生が周囲に現れる。
彼女たちの持つ『セブンティーン』に書かれたロストバージン体験手記は、中学生の頃に読んだコバルトシリーズとは違って、近い将来の自分の身に起こることの予習のようであった。
そうなると、エロマンガやコバルトシリーズが楽しめなくなり、私のオカズ探訪の世界は一気に収縮してしまうこととなった。
私のオカズ探訪の旅は、セックスがリアルな行為として感じられないからこそ、世界の果てやイスカンダルの先まで行けるものだったのだ。
大人になり、女になり、さまざまな経験を経て、閉経を迎え、人生の終わりが視界に入ってきた今、峰不二子や砂土屋俊で遠い異世界に行くことができていたあの頃を振り返ると、まるで遠い夢のようである。