キレてしまうことで悩んでいる人へ向けての対処法で、こういったフレーズをよく見ます。「怒りを静めるには」「怒りをコントロールするために」「怒りの抑え方」。

「静める、コントロールする、抑える」という言葉を使うと、自分の中にある怒りを悪しき敵とすることが前提であるように感じます。

私も、夫にキレてしまうことで悩みまくっていた時期は、どうにかしてこの悪癖を治さなくてならない、と思っていました。怒りを出しすぎるのは恥ずかしい、大人げなくて子どもっぽい、いい年して最悪だ、みっともない……。ただひたすら、自分が嫌で仕方ありませんでした。

この「大人げない、子どもっぽい、最悪、みっともない」というのは「キレる人」に対する世間からの評価そのものです。つまり私は、キレる自分に対して常に、世間からの評価を下していました。キレるのは子どもっぽくてダメだから、怒りを静めてコントロールして自分を抑えなければいけない。大人にならなければいけない。そう頭でわかっていても、まったく自分の体は言うことを聞いてくれません。さらに自分のことが嫌になっていきました。

自分の中の怒りは「甘えてくる小さな子ども」

あとからわかったことですが、自分の中から湧いてくる怒りを抑え込んで強制的に静かにさせるような、まるで手下のような感覚を持ったままだと、逆に怒りはどんどん増幅されていきます。例えば「ここ(職場)ではキレてはいけない」と〝手下〟に命令して、言い聞かせることに成功しても、発散させる場所や相手の矛先を変えて結局爆発します。

夫にキレる自分が嫌で仕方なくてもがき苦しんだ私が、自分なりの「キレない生活」を過ごせるようになったきっかけは、自分の中の怒りを「言う事を聞かない手下」として捉えるのをやめ、「甘えてくる小さい子ども」なんだと理解したことです。

イラスト=田房永子

納得したいという欲求  

では、怒りを「甘えてくる小さい子ども」と捉えた上で、どういう対応をしたらいいか。私がたどり着いた答えは、「怒りを納得させてあげる」という方法です。人が怒っている様子を観察してみると、ほとんどの場合が「納得できない」という感情を持っているように見えます。何年も前の出来事を思い出して怒りが込み上げるのも、その出来事に対して納得できていないから。逆に自分が納得さえできればスッキリ爽快になることは多くの人が経験していると思います。言い換えれば怒りは「納得したい」という欲求によって湧くものであるとも言えます。

ここで「納得したい」という欲求を持っているのは、自分の中の怒り(甘えてくる小さい子ども)も同じだと考えます。怒りも、怒る理由があって怒っているわけです。でもそれを誰も聞いてくれないしわかってくれない。自分にすらウンザリされている。だから納得できなくて外にわかるように暴れます。怒りが暴れ出すと操られるように自分の体が動き、声が大きくなったり、手足が震えたりします。これが「キレる」システムです。

だから自分の中の怒りの話も聞かず、ただ「お前はみっともない、お前は間違っている、お前が悪い」と評価を下し「ここでは黙ってろ」と抑え込むのは逆効果です。

イラスト=田房永子

怒りが湧き起こるたびに、自分の話を聞いてあげる

どうすれば怒りがおさまるのかというと、とても簡単。自分の心の声に耳を傾けてみて、「そうなんだ、そうだったんだねー」と認めてあげれば、それだけで納得します。

でも外部からの刺激によって、またグワーっと怒りが赤く膨れ上がり爆発寸前になることもあります。そのたびに、怒りの話を聞いてあげます。詳しい聞き方は「キレる私をやめたい」や今連載中の「嫌いな人のことが嫌いじゃなくなる方法」に書いていますので、知りたい方はぜひ読んでみてください。慣れてくるとこっちも「ヨシヨシ、大変だったね」と、怒りとコミュニケーションできるようになります。

同時に怒りの強さがその場に見合っているかどうか、もわかってくるので、相手に対して怒りをぶつけるべき時は適切に伝えられるようになります。キレずに自分の怒りを伝えられることの素晴らしさは、相手と気持ちよい関係を保てるということです。

時には怒りを大きく出し過ぎてしまった、と反省する日もあります。そういう日も怒りの話を聞いてあげれば、何より自分が納得できて、ちゃんと相手に謝ることができます。

「自分を思いやること」と「他人を思いやらないこと」は直結しません

キレる人は、とても迷惑な加害者です。

だから「キレることに悩んでいる人は、自分の『怒り』の話を聞いてあげて『ヨシヨシ、大変だったね』とねぎらいましょう」という私の考えに対して、強い拒絶反応を示す人もいます。

拒絶する人の主張を聞くと、加害者が自分を自分でねぎらう、優しく自分の事情を聞くことは「私は悪くない」と開き直ることであり、イコール「人のせいにする」ということである、と捉えていることもあります。

私たちは生まれてすぐの頃から学校でも社会に出てからもずっと「他人に迷惑をかけるな、他人の気持ちを考えて行動しろ」と教育されてきました。それはつまり「自分より相手を優先して思いやれ」という教えです。自分の怒りの話を聞いてねぎらいましょうなんて教えられたことがないので、「自分を思いやること」イコール「他人を思いやらないこと」に直結してしまっている人が多いのではないでしょうか。私もその1人だったし、「他人より自分を優先して思いやること」がわがままで自分勝手なことだと教えられてきたんだから当然だと思います。

でも、すでにキレてしまって迷惑な加害者になってしまっている自分に対して周りもウンザリしている中、一体誰が自分の怒りの話を聞いてあげられるんでしょうか。そもそも自分が話を聞いてあげられないから、怒りは納得できなくて、「こいつ聞いてくんないよー!代わりにお前が聞けよー!!」と周りに怒り飛び出ているわけです。

真の「大人になること」は自分で自分をねぎらえること

小さな子どもは、自分が不当に扱われたり大切にしてもらえないと感じると泣き叫んだり、露骨に元気をなくしたりします。人間は成人すると子ども的性質がだんだんなくなっていく(我慢できるようになっていく)という前提で社会は作られています。だから大人になっても子ども的性質が丸出しの人を「子どもっぽい」と言い、「大人になる」ということは「子どもっぽい」行動を人前でしないようにすることだとされています。私は成人してから20年以上経ちますが、子ども的性質がなくなっている人なんて見たことがありません。人それぞれ差はあるものの、誰でも不当に扱われたら怒るし元気がなくなります。

大人になっても、中身の子ども的性質がほとんど変わらないというのは、それがその人の性格や性質とは別の、生き物としての命の尊厳のような部分だからだと思います。死にそうになったら自然と生きようと反射する力。もし、子ども時代に怒りの世話を適切にしてもらえなくて世話の方法がわからないという人も、今からでも練習すればすぐできるようになると思います。自分の怒りの世話ができるようになって自分を自分でねぎらえるようになる、それが真の意味での「大人になる」ことだと思います。

イラスト=田房永子

私たちは、いつまで経っても小さな子どもが自分の中に存在します。そしてやっかいなことに、その小さな子どもは自分しか頼る人がいません。駅でキレ散らかしてるおじさんに「どうしたの?なんで怒ってるの?話を聞くよ」なんて話しかけるのはとても難しい。だけど自分の怒りに対しては「どうしたの?」と聞くことができます。なぜかというと、怒りが自分に聞いてもらえるのをいつも待っているからです。

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『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜』

田房永子 著/竹書房

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