セクシュアルヘルス(性の健康)とは、WHOの定義によると以下のように記されています。
「セクシュアリティに関連して、身体的、感情的、精神的、社会的に良好な状態。それは単に病気、機能障害、または虚弱がないということではありません。
性的健康には、セクシュアリティと性的関係に対する前向きで敬意のあるアプローチが必要であり、強制、差別、暴力のない、楽しく安全な性的経験をする可能性も必要です。性的健康を達成し維持するためには、すべての人の性的権利が尊重され、保護され、満たされなければなりません」
そこには、性を楽しむ権利「Pleasure」も含まれています。
誰しもが生まれながらに持っている性の権利ですが、なぜか性の話になると我慢をしたり、偽ってしまったり、自分の権利を忘れてしまう人も多い現状があります。
日本性科学会 副理事長である産婦人科医 早乙女智子先生に、性の権利について話を聞きました。
セクシュアルプレジャーとは?
—— 性の健康宣言の中には「Pleasure」という言葉があります。ここでいうPleasureとはどのようなものなのでしょうか?
この権利で大切なのは自分が楽しみを得る権利はもちろんですが、人の権利を搾取しないという意味も含まれています。性の楽しみは大切ではあるものの、人が嫌がることをして達成できるプレジャーは、この中には存在していません。
そのことを理解していない人が多いんじゃないかなと思うんです。
—— 例えば、性交痛など、セックスが痛いという人もいます。その痛みを我慢している状況が健康的な状態ではないと。
まず、なぜ女性は心地よくなることを遠慮してしまうのか、真面目に考えないといけませんよね。
例えば喫茶店に入ったら、コーヒーやアイスティーなど飲み物をそれぞれ選びますよね。ケーキやプリンを食べてもいい。喫茶店で「私も頼んでいいですか?水だけにしておいた方がいいですか?」って他人に聞くことは基本的にはないですよね。
性の議題においても、「私は快感を求めていいですか?」と聞く必要はないんです。誰もそれを止めてはいません。
結局、それを止めているのは自分自身なんです。だからこそ、セックスレスで悩んでいると言う人でも、性行為をしたくない人なのであれば、そもそもしなくてもいいですし、本来はどうしようと悩む必要はありません。
自分に権利があり、その選択を自らする責任があります。だからこそ、自ら性の快楽を求めていった結果、失敗する可能性だってあります。
ーー 女性が自ら快楽を求めることに否定的な人が多いように感じますか?パートナーから「はしたない」と思われたくないと言う声も聞きます。
自分が性を楽しむ権利について、他人に許諾を取らないといけないことなのか?ということが大前提ですが、時代が変わる中で、女性が性欲を持っていることに対して拒否反応を示す人ばかりではなくなっているように感じます。
若い世代を見ていると、男がどうとか、女がどうとかではなく、人としてどうなのかと見ている人も増えているんじゃないでしょうか。
むしろ、自分自身が変わっていく自分を許せるかが大切です。自分だけでなく人間関係も変わっていきますからね。
結婚や人付き合いで面白いのは、それぞれの変化が見られることです。その変化をお互いに楽しめるか、それとも変化が許せなくて、「こんなことになるなら結婚しなかった」と思ってしまうのか。
ーー 変わっていく自分自身が怖いこともありますよね。
例えば、Agiesm(エイジズム)、年齢によるステレオタイプもそうですよね。
性に関することでいうと、いつまでも若いままでいたいという気持ちなどもそう。
相手あってのことですが、まずは自分自身が老いていくことを認められるかどうか。一度、年齢信仰に入ってしまうとなかなか抜け出せなくなります。
生物学的女性においては、妊活や出産の話もそうですよね。
確かに、36歳以上になってくると妊娠の確率は下がり、全員が妊娠するわけではないので子どもを持てない人が出てくるのはその通りですが、40代で自然妊娠をする人もいます。
だから、何歳までに妊娠をしないといけないと他者が不安を煽る必要はないし、それに余計に振り回される必要はないのではないでしょうか。
ーー データの数値を見ることと、不安を煽られるのは違うと。
例えば、不妊治療クリニックが出しているデータは不妊治療を受けている人のデータであり、自然妊娠のデータは含まれていません。
完全な自然妊娠ではなかったにせよ、全く妊娠しないというわけではない。数字は参考にはなるが、平均値や推奨値などの数字だけに踊らされないでほしい。
妊娠、出産とエイジズムが重なりあうことにより、気付かぬうちに年齢にがんじがらめになってしまう傾向がある。
そうすると、その考えが中心になり、自分の人生が年齢というものに支配されてしまい選択肢が狭まってしまいます。
ーー 気付かぬうちに、選択肢がないと思い込んでしまっている可能性があると。数値だけに踊らされないようにするのはとても難しいですよね。
そうですね。自分が人生のオーナーシップを持ち続けるために、メディアリテラシーを身につけることも大切です。
医者である自分が医者を疑えというのもなんですが、誰の話をどういう根拠で信じるかは自分の感性できちんと選んでいく。それは悪いことではありません。
玉ねぎの皮みたい。剥ぎ取られてしまう「権利」
ーー 早乙女先生も理事をされている性の専門家・研究家らによる団体「The World Association for Sexual Health(WAS)」(世界性の健康学会)が、2020年に「セクシャルジャスティス」という考えを発表されていました。これはどのようなことなのでしょうか?
性の公平性となりますが、これは2015年に国連が採択したSDGsなどの流れも絡んでいます。「No one lieve behind (誰も取り残さない)」ということです。性の権利や健康にも公平性を担保していくということです。
障害者の性、高齢者の性もそうですが、よりライツ(権利)を中心に、あらゆる人の権利を公平に考える方向になっていると感じます。
―― セクシュアルヘルスも、セクシュアルプレジャーもセクシュアルジャスティスも全て「権利」として存在しているもの。
そうです。でも人権というととても遠い、堅いものだと感じてしまう。
自分が性を楽しんでいいのだろうか?と自問自答していることもあるかもしれませんが、その問いは、「私に人権はありますか?」と聞いているのと同じことです。
―― そこに存在しているものを、あるかどうか聞いてしまう。なぜそうなっていると感じますか?
権利は、生まれた時から存在し、失ってもいないはずなのに、たまねぎの皮みたいに一枚一枚剥ぎ取られているかのように感じます。
日々の生活の中で、なんとなく感じている無言のプレッシャーや、周りから投げかけられる言葉で少しづつ剥がれてしまう。
時には自分の嘘で剥ぎ取ってしまうこともある。「こんな女性がいてさ、でも私は違うけどね」と言ってみたり。
自分の小さな嘘の積み上げで心がすり減り、最後には自分がどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
―― すごくわかります。早乙女先生自身も剥ぎ取られたことはなかったんですか?
私は、今はないんじゃないかなあと思いますが、今思い返せば確かにありました。
私の母は、昔ながらの考えの人で、男尊女卑の考えに支配されていた。そんな母に育てられた私自身も、高校生までは教科書が全て正しいし、親が言うことが正しいと思っていた。
なんなら、親の考えと自分の考えが著しく違ったため、私自身はおかしいんだと思っていた。
でも、大学でようやく実家を出て、周りの同級生を見渡したら、教科書通りじゃない人たちばかりだった。
そんな同級生たちから私は「お前はなんで教科書、教科書言ってんの?」「視野が狭い、杓子定規」と言われ続けて、「え、どういうこと?私は、教科書をこんなにマスターしているのになんで?」と戸惑いました。そこから「あ、そうか、私は何も知らなかったんだな」と気づいて。
ずっと気にしていなかったけれど、私自身も随分と剥ぎ取られていたようです。
―― 異なる価値観の場所に身を置けて気づけたと。
母から離れられたのはよかったかもしれない。今でいう教育虐待と言えるような日々だったし、でも高校では親に部活の宿泊合宿の参加を許されなかったために退部したり、大学は落ちたら就職といわれ、退路を断たれて崖っぷちでした。
母からは「男に負けるな!女らしくしろ!」と言われていた。意味不明でしょ?(笑)ジェンダーバイアスが強く育っていった。
母への嫌悪感はとても強かったし、母もそれをわかっていた。とにかく母と合わなくて、ほんと50歳まで大喧嘩してた。
でも2018年頃かな、自分の心の中で母の存在を消してみたのよ。さよならをして、距離をとった。
私が母の前でいい子でいようとしていた時と同じように、母はいい母であろうとしていた。事実、私は50代まで着物も着せてもらっていたし、私自身が母に依存していたようにも思う。
だから、1回自分の中で消してみた。そうすると、死んでしまったら、なんていい人だったんだろうって。ここまでしてくれてありがとうって。不思議でしょ。でも、これでもう葬式で泣かないで済むと思う。
だから、どんな状況においてもね、距離のとり方や落とし前の付け方でどうとでもなる。今は母との確執にも感謝しかありません。
―― 以前の早乙女先生は、ジェンダーバイアスもとても強かったんですね。
そうですね。産婦人科医になり、中絶や出産に立ち会うことが増え、当時働いていた病院で出産後のお母さんと部屋で一緒に色々話す機会が多くて、彼女たちからいろんな話が出てきた。
みんなそれぞれ悩みを抱えていて、そんな話を聞いていたら、普通ってないんだなと。
自分がひとつ自由になったら他の不自由が見えてくるようになって。
話をしながら、自分自身も剥ぎ取られていたものを、徐々に修復していったのかもしれない。その後、性の相談外来などで性にまつわるいろんな相談を受けるようになっていきました。
正解依存症から抜け出して、あるがままを楽しめるように
―― 自分自身が人生を楽しむ権利を行使するにはどのようなことが大切だと思いますか?
生まれた時は素直に自分らしくあるはずですが、Pleasuer(楽しむ)ということは日本では難しく感じてしまうのかもしれません。
例えば、WAS(世界性の健康学会)ではさまざまな議論がなされ、もちろん意見が異なればぶつかることもあります。ですが、考え方の違いを認め合い、決して非難はしません。
さまざまな国籍、環境の人がいますが、どのような人であっても、「その人がその人であること」として受け入れられます。
カテゴライズしたり、横に並べて優劣をつけたりしない。そのままでいられる環境があれば、「楽しんでいいんだろうか?」と思わず、自分をそのまま楽しめるのかもしれません。
時には、いつから自分を隠すようになりましたか?という質問を投げかけてみるのもいいかもしれません。
ーー たしかに自分が自分にかけていたブレーキが見えてくるかもしれませんね。その上で、自分がどうありたいか言語化してみる
本音と建前が強く出てしまう方もいます。
世間体の話が主語になり、誰かになろうとしてしまう時は「世間様3人連れてきて。あなたが言う世間様はどんな顔をしているの?」と聞きます。
例えば体の見た目なんかもそう。
ネットに〜〜と書いてありましたが私の体は大丈夫でしょうか?とお越しになる方もいる。私はいつも「ネットの中にあなたの体はありませんよ」と伝えています。
まずは、自分の体に聞いて欲しいんです。自分自身が私の体はこれで大丈夫だと思えることが大切です。
もちろんそうじゃない部分もあるけど、これでいいのか?という決定権を他者に委ねてはダメです。
SEXの時の痛みもそう。痛いんだけど我慢した方がいいですか?は痛いという事実があるのだから、それに対処する必要があります。相手に委ねてはダメですよね。
―― あくまでも自分を軸に他者との関わりを考えていく必要があると。
私たちは、人間関係でもなんでも正解はどれだろうと、正解依存症になりがちです。そして、近道をしたがる。
自分がしたいこと、したくないことをまず知ることです。そしてパートナーとの関係であればパートナーにも、したいことしたくないことがある、それを互いに知り合うことしか方法はありません。
セクシュアルライツ、性の権利。権利というと、権利を勝ちとるものという表現が浮かぶかもしれませんが、もらうものではなく、存在しているものです。
ここにあること、自分があるがままでいいということ。だからこそ、自分の欲求を見つけるんです。当たり前のことすぎて、なかなか気づかないんですよね。
―― あるがままって一番難しいですよね。
そう。だからまずは自分を見つけるんです。「あるがまま」は実際、誰かに委ねてしまっていることもあります。
私たちにはそれぞれ様々な役割がある、誰かの妻であり、誰かの夫でもある。子育てもある。でも、先に、私を主語に「人生楽しいかも」と思うことは悪いことではないんですよ。