私の個展には、多くの女性たちが足を運んでくれる。
「昭和のエロ」をテーマにしているのだから、おじさんばかりかと思いきや、女性客の多さにはギャラリーの人も驚いている。そして、彼女たちのほとんどが「勇気をもらった」と言って帰っていく。
変わることがわかっているから、年をとるのが怖い
マキエマキとして活動を始めた頃、何に対して勇気をもらったと言っているのかがわからなかった。しかし話を聞いてみると、一様に「年を取ることが怖くなくなった」という言葉が出てくる。
「年をとることが怖い」
こう感じているのは、圧倒的に男性より女性だ。
私も、森高千里の「私がオバサンになっても」という曲が流行ったとき、あの歌詞の内容を自分のことのように感じていた。
「私がオバサンになっても本当に変わらない?」
変わるんだよ。
変わることがわかっているから、若さを失うことが怖いんだよ。
若さを理由に近づいてくる男性なんて必要ないんじゃない?
20代の頃、今よりも肌の張りがあって、バストトップが高くて、ウエストがくびれていた頃、私はうんざりするほどモテていた。モテ、というと羨ましいと言われるが、不必要に異性から好意を持たれることは、決して楽しいことではない。
私に近づいてきた多くの男性の目的はセックスだったし、「結婚したい」と言われても「私の都合は考えているの?」と思うばかりだった。
25歳を過ぎ、30歳を過ぎ、35歳を過ぎた頃からようやく不必要なアプローチを受けることが少なくなって、ずいぶんと楽になった。
つまり、若さを失ったことで、男性から関心を持たれる機会が減ったのだ。
男性から関心を持たれる機会が減ったのは、自分が性的に見られることが少なくなったからだろう。
私はそのことで生きやすくなったし、楽になったけど、そのことを悲観的に思う女性もいるようだ。
でも待って。
性的な関心を持って近づいてくる男性なんて必要なの?
少なくとも私に対して性的な関心を抱いて近づいてくる男たちは、みな、私の人格なんて見ていなかった。私の外見から、自分にとって都合のいい「マキエ像」を作り出して、そこに勝手に私を当てはめていただけだ。
「結婚したい」と言われたとき、「今は仕事がしたい」と伝えれば、「俺が養うから」と返される。私は養ってなんかもらいたくないのに。
付き合いはじめのときには、上から目線で接してきていた彼が、付き合ううちに「君が上司だったらよかったのに。女として見られない」と言って去っていった。貴方は私の何に惹かれていたのかと、開いた口が塞がらなかった。
私にとって自分の腕で稼ぐことが自分のアイデンティティ。それなのに、彼らはそこを見ないで、一体何と付き合っていたのだろう。彼らにとって「女として見る」ことは自分よりも能力が劣っていないとできないことだったのだろうか。
若さゆえの外見の美しさ、可愛らしさ、そんなものを礼賛する男性から選ばれることがなくなることで、ようやく私は自分らしくいられるようになった。
そして、女としてではなく、私として見てくれる人に出会えるようになった。
自分の人格を見ない相手と対等な付き合いなんてできない。
若さを失うことで女らしく見られなくなるのが怖いと思っている女性たちに私は言いたい。
若さを失って初めて、自分の人格を見ないで近づいて来るような男たちの視線から開放されることで、女は自由になれるのだ。
そして、より自分らしく生きられるようになるのだ。