48歳になるまで「処女」だった私。今も、特定の恋人と言える存在はおらず、ひとりの人生を満喫しています。
参考記事
48歳まで「処女」だった私が、男性経験がないことで悩む人に伝えたいこと
この歳になると、周りの同世代の多くは結婚して子どもを産み、早い人なら子育ても終わっています。
これが多くの人がイメージするアラフィフ女性像かもしれません。
私もちょっと前までは「結婚しないの?」と周囲から言われ、自分自身もその言葉に惑わされ、「早く結婚しないと!」と焦っていました。
しかしある日突如「あ〜、別に無理に結婚しなくていいかも」と思えるようになったのです。
それは、「婚活」がきっかけでした。
自分を幸せにできなかった“婚活”
私がいわゆる「婚活」というものを始めたのは、30代前半のこと。
そのとき、私には好きな人がいて、その片思いの相手に失恋したことが婚活に乗り出すきっかけになりました。
失恋してどん底になっている心の傷を癒すために婚活を始めたのです。
まずは、婚活に関する女性のコミュニティに参加することから始めました。
そこにはさまざまなタイプの女性が集まっており、それぞれが結婚に向けて意見交換をしていました。
私もそのグループワークに参加し、結婚に関する価値観をアウトプットしたり、コミュニティで仲良くなった女性たちとお見合いパーティに参加したりと、婚活を活発にしていきました。
しかし、そのように結婚という目的に向かって活動していても、男性に会って話をしても私は楽しくなかったのです。
むしろ、「結婚相手候補」である男性をジャッジすることや、自分がジャッジされることがつらくてきつくて、「私は何をやってるのだろう?」「本当に結婚したいの?」と思うことがどんどん増えていきました。
また、婚活の中で付き合いのあった女性たちに関しても、「結婚=幸せになれる」という思いの強い人が多く、その熱い思いについていけませんでした。
私が男性となかなかデートできずにいると、「そんなことじゃ結婚できないよ!どんどん出会わなくちゃ」と喝を入れられるのですが、それがとても窮屈に感じていました。
そして、私が「婚活」をやめるきっかけになる出来事が起きます。
それは婚活とは関係ない昔からの「オタク友達」から言われた、「最近、楽しそうじゃないけど、幸せなの?」という言葉でした。
その言葉を聞いて、はっ!と気がついたのです。
自分は婚活しているのに幸せではなく、むしろ苦しくつらかった。
私にとって「結婚」はそこまで大事なことではないのだということに。
その友人からの言葉がきっかけで、私は婚活をぱったり辞めました。
「自分の幸せ」を基準にして生きる。そうすれば後悔することはない
婚活を辞めた後、私は“推し”を見つけて「オタ活」をすることに夢中になりました。
実は私は小学生の頃から、ジャンルを問わず好きなものを見つけて、それに没頭していく時間がとても好きだったのです。
その趣味の時間が頑張って結婚相手を探すよりも、私を「幸せ」にしてくれることなのだ。
そのことに、苦しかった「婚活」を通して気づいたのです。
ただ、人間なので、ときどき寂しくなって「一緒に暮らせるパートナーが欲しい」と思うこともあります。
けれど、ひとりで好きなことに夢中になっている中で、「何がなんでも結婚!」という気持ちになることはなくなりました。
なぜなら、「自分を幸せにできるのは、私自身だ」ということに気がつけたからです。
もちろん、これから生きていく中で「結婚したい」と心から思える相手に出会えるかもしれませんし、そういう相手に出会うことなく、ひとりで生きていくことになるかもしれません。
けれど、たとえひとりだったとしても、「自分の幸せ」を基準にして生きていくことは、悪くないなって思えるし、後悔することはないと思うのです。
もし誰かと一緒に暮らすとしても、「結婚」という形を取らないかもしれません。
お互いの大事なものを大切にして、それぞれの幸せを尊重して一緒に暮らしていける、「人生のパートナー」としての生き方を選びたいと思っています。
多様性という言葉をよく耳にする中、女性自身も自分の幸せを1番に考えて、ライフスタイルを選べるようになってきました。
自分がどのように生きていけば幸せなのか?私はそう考える中で、今の幸せを見つけることができました。
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ランドリーボックスでは特集「#ひとりのわたし」をスタートしました。
性別に限らず、私たちには様々な「役割」があります。
ですが、その「役割」をまっとうすることだけが自分の人生ではありません。
私たちには様々な役割と同じように、様々な価値観や欲求が存在しています。
あらゆるジェンダー規範に囚われることなく、一度きりの人生、わたしの人生を謳歌してほしい。
わたしを謳歌するということは、自分で選択し、自分の足で前に進むということでもあります。
女として、妻として、母として、子供としてではなく、ひとりの「わたし」として。
ただ、それは決して、ひとりきりであるということではありません。
そんな想いをこめて、ランドリーボックスでは、それぞれの「ひとりのわたし」に関するコンテンツをお届けします。
目の前に続いていく道が、「ひとりのわたし」たちが手を取りあえる未来に繋がりますように。