アスリートとして身体は最高の状態でありたい。でも、生理によるさまざまな苦痛は耐えきれない。凄まじい葛藤の日々が続いていた大学生までの私。
そんな私がドイツに渡って感じたさまざまなカルチャーショック。
「自分の身体は自分で守る」
「自分の身体を大切にする」
アタリマエのようでアタリマエでなかったこの事実と向き合ったとき、私の中で生まれた「自分のための生理との向き合い方」とは。
約2年間、ドイツでプレーする中で、生理に関するさまざまなカルチャーショックを味わったのはお話したとおり。その体験を通して、生理との向き合い方に変化があったのだけれど、それは根底として「自分との向き合い方」が変わったからなのだろうと思う。
ひとつひとつの選択が積み重なった結果が、自分であるはずなのに。
生理の話から少しだけ離れさせて欲しい。
第1回のコラムで私は「自分自身の性は一体どこにあるのか分からず、自分の性のあり方を飲み込めるようになるのはだいぶ後の話である」なんて一文を書いていた。
この、“だいぶ後”こそが、ドイツで過ごした2年間である。
高校生の頃から女性が好きだと認識していたけれど、自認する性はずっと揺らぎ続けていた。自分は女性だと認識しているけれど、人から女性扱いされるのは嫌だった。だからといって男性になりたいかと言えばそうではなく。付き合っていた彼女に「なよなよしないでよ」「重い方の荷物を持って」なんて言われて、さらに困惑したりもした。
でも、ドイツに渡り、いかに自分が男女の枠に捕らわれていたかを痛感した。
自分の選択に誇りを持ち、誰かの選択をジャッジせずに尊重する人たちを目の当たりにしたとき、男女どちらかなんてことは本当にどうでもよくなった。自分や、自分の選択を大切にするということ。そうやって、自分自身の選択が積み重なり、結果として下山田志帆ができていく。それでよかった。
「女性なら我慢するのがアタリマエ」のはずがなかった
生理痛が酷くても休めない練習。雨の日の試合でぐちょぐちょになったナプキンもアタリマエ。花柄の生理用品をグレーの袋に入れて持ち帰る恥ずかしさ…。
生理に葛藤し続けてきた長い期間、私は常に自分で選択したとは到底言えない選択を重ねてきた。
「自分は嫌だと思っているけど、なんとなく言いづらいから」
「気持ち悪いけど、女性はみんな我慢しなくちゃいけないんだよな」
「なんでこんなラブリーなものを買ってるんだろう」
不快な気持ちが常にまとわりついていても、それは女性ならみんなが経験していて、アタリマエに我慢をするものだと思わされ続けていた。私の選択権はどこにも見当たらない。
でも、ドイツに行ってから、私が感じていたあの不快さは決してアタリマエとは限らないことに気がついた。私たちは女性・男性の箱に入っている存在ではない。それぞれが自分という1人の人間であり、自分の身に起きたことは自分に合った選択肢で解決してもいいのだと教えてもらった。
自分に合った生理との向き合い方を模索する日々
現在、日本に帰国してからの私は「自分に合った生理との向き合い方」を全力で模索している。
生理痛が年々ひどくなってきたので、ピルを飲み始めた。生理用品をなるべく買わなくてもいいように吸収型のパンツを使い始めた。本当に体調が悪いときは、素直に伝えて練習を抜けたり、パートナーに助けを求めるようになった。
そうやって、自分に合った向き合い方を見つける中でも、男・女の枠組みによる選択肢の少なさによって新たな悩みが生まれることもある。ピルをもらいたいけど産婦人科を受診しづらい。自分にあったデザインの吸収型パンツがない。練習を「生理痛で休みます」と恥ずかしくて言えず「調子が悪い」と濁してしまう自分がいることにも気がついた。
でも、その悩みも、オンラインのピル診療サービスを使用したり、自分で吸収型のパンツのブランドを作ろうと奔走したり(今年度にリリース予定)、チームメイトに相談したりすることで解決に近づいてきている。
もう自分に我慢をさせないために、丁寧に選択を積み重ねていく
自分の嫌なことやつらいことは我慢するのではなく、声をあげてもいいのだということ。逃げ道を用意することも1つの前向きな向き合い方であること。生理との向き合い方を見つけるにあたって、それらの考え方は私を楽にしてくれた。
今後も、自分の身体や生理に悩まされることなんてたくさんあるのだと思う。でも、決してその悩みやつらさをグッとこらえて我慢することは自分にさせたくない。自分を大切にして生きていくために、自分ができる選択肢を積み重ねていきたい。強く、そう思っている。