日本クィア映画の発展は共感できる作品に出会えるきっかけ
日本におけるクィア作品はここ数年で著しいスピードで制作、公開されるようになった。
僕が学生の頃は邦画でクィア(注1)が描かれている作品はほぼ無く、クィアの物語を観たいと思ったら、洋画を観るという選択肢しかほぼなかった。もしかしたらそういった作品もあったかもしれないが、なかなかアクセスすることができなかったように思う。
*注1:クィア…LGBTQ+を含む、性自認や性的指向、性表現がさまざまな人たちの総称
だからここ数年の日本クィア作品の発展は、今を生きるすべての世代のクィアにとって、自分のアイデンティティを模索したり、共感できる作品と巡り会えるきっかけになっているだろう。
また、シスジェンダー(注2)、ヘテロセクシュアル(注3)(以下:シスヘテロ)の人たちも、自分の中にあるクィアネスと向き合うきっかけになっているのではないだろうか。
*注2:シスジェンダー…出生時に割り当てられた性と性自認が一致している人
*注3:ヘテロセクシュアル…性的指向が異性の人
いち個人として、違和感を覚えた作品について
しかしこの日本クィア作品の発展とともに、偏った表象がされることも少なくはない。映画やドラマはフィクションとノンフィクションを行き来したり、どちらかに偏らせることができる。そのため、作品を観る人たちに、人物が持つアイデンティティやバックグラウンド、コミュニティを、現実世界で生きる人々も皆、作品で描かれたような人生を送っていると印象付けてしまうことがある。
それほど映画やドラマなどの映像作品の持つ影響力は凄まじいのだ。
僕自身は、男性からノンバイナリージェンダー(注4)にトランスし、マセクシュアル(注5)であると自認している。
*注4:ノンバイナリージェンダー…男女二元論におさまらず、自分を男でも女でもない、またどちらも持ち合わせている性別のこと
*注5:マセクシュアル…ジェンダーアイデンティティに関係なく性的指向が男性の人
今回そんな僕が、日本のクィア作品の発展をリスペクトしていることを大前提に、シンパシーを強く感じていた「ゲイ」「トランスジェンダー」を取り扱った作品の中から、個人的に違和感を覚えた表象について話していこうと思う。
『怒り』2016年公開
この作品は全編を通してクィア映画というわけではなく、ひとつの事件を巡り3カ所で起こる人間関係を描いたサスペンスミステリーだ。そのうちの東京編では優馬(妻夫木聡)と直人(綾野剛)がハッテン場で出会い、同居を始めるうちに関係が深くなっていく姿を描いている。
2人がハッテン場で出会う際、うずくまる直人を優馬が押し倒し、“同意無く”セックスをするシーンがある。ハッテン場は主に性行為を目的とした出会いの場であるが、その空間で同意を得なくてもいいというわけではない。これは明らかな性暴力であり、同性間のセックス時に許されていることでは決してないのだ。
この映画では沖縄編で広瀬すず演じる泉が米軍に性暴力を受けるシーンがあることから、同意の無いセックスを肯定している作品ではない。
さらに言うと、この同性間における同意のない性行為というのはほかの作品でも描かれている。綾野剛と松田龍平がW主演を務めた『影裏』でも、相手の同意無くキスを迫るシーンが描かれている。こうした演出は“同性愛者は襲ってくる”という印象をシスヘテロに与える可能性があるだろう。
現にセクシュアリティをカミングアウトした際に「別にいいけど、襲うなよ~?」といった返答が来ることも“あるある”だ。そういったイメージは、クィアが自身のセクシュアリティやジェンダーアイデンティティをオープンにした上で仕事をしている描写がゲイバーやセックスワークばかりということもあるだろう。
『怒り』、『影裏』ともに、今まで描かれてきた「クィアであること=悲劇」といった描かれ方をしていない、かつ「差別なんて存在しない、この世はハッピーピースフルワールド」といったファンタジーにならないような演出が散りばめられている。うまく現実と表象のバランスが取れていて、上記で述べた違和感以外は個人的には好きな作品だ。
『ミッドナイトスワン』2020年公開
この作品は、第44回日本アカデミー賞で最優秀作品賞と最優秀主演男優賞を受賞した。トランスジェンダー女性の凪沙(草彅剛)が、育児放棄を受けていた親戚の一果(服部樹咲)を引き取り、共に暮らしていくというストーリー。
草彅剛が主演を演じたことで、この作品は公開前から注目され、日本アカデミー賞を受賞したことで長期に渡って劇場公開している。
作品を観進めていて終始感じていたことは「未だにトランスジェンダーをこのように描くのか」ということ。
主人公の凪沙は性移行手術を受ける前はショーパブで働き、バレエダンサーを夢見る一果のためにセックスワーカーとして働く決意をする。そして最終的には治療を放棄してしまい自分1人でトイレに行くことすらままならない状況になり、精神疾患を患ったような描写とともに命を終える。
「トランスジェンダー×死」という描写
1999年のアメリカ映画『ボーイズ・ドント・クライ』もトランスジェンダー男性が最終的に銃殺されてしまう話であったが、このように「トランスジェンダー×死」という表象はされ続けてきた。
こういった作品を観たジェンダーアイデンティティに違和を感じる人たちは、自分が望む性を選択することで「死」と隣り合わせになることを想像してしまうかもしれない。もちろん、この作品で描かれているような生活を余儀なくされたり、トランスジェンダーが受けている暴力的な差別は実際に存在する。それらを生々しく描いたことは、現状存在している差別を誇張しているとは思わない。
この作品を通して未だはびこるトランスジェンダーに対する差別の現状を知ることは大切なことだ。
これだけ注目され日本映画界で実績と力を持った製作陣が、クィアをテーマに取り扱った映画を作ることは重要だと思う。しかし同時にどれだけシスヘテロ的視点を排除し、当事者コミュニティーにリスペクトを持ち、共に作っていけるかが何よりも大切だと僕は思う。
そうすることでシスヘテロだけでなく、クィアが望む、本当に観たいクィアの物語が映画界でも力を持ち、より良い日本映画界を再構築することができるのではないだろうか。僕はそんな期待を抱きながら、これからの日本クィア作品の発展を願っている。
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今回は僕が違和感を覚えた作品を紹介したが、下記では僕が是非観てほしいと思っている作品をおすすめしているので、是非合わせて読んでいただきたい。
ゲイ以外の存在を描いたクィア映画。クィアの僕がおすすめする3作品
『ミスエデュケーション』『詩人の恋』『トランスジェンダーとハリウッド 過去、現在、そして』の3作品に触れていく。