いつも他人にどう思われているかばかりを気にして生きてきた私。

やはりセックスでも同様に、パートナーにどう思われているかばかり考えていた。

昨今、「性暴力」「性的同意」についての報道や話題を目にするたびに、今まで見て見ぬふりをしていた自分のセックス観について考えが巡る。

私は自分のカラダを、ちゃんと大事に取り扱えていただろうか?

「嫌われたくない」の我慢と「こういうのが好きなんだろう?」の勘違い

基本的に「好きな人」とするのがセックスなわけで、私にとってセックスのパートナーというのは、他人の中でも格段に「どう思われるか」考えてしまう相手だ。

そんな相手とのセックスの中で、自分の体や気持ち、気持ちよさを大事にするなんてことは、私には二の次すぎたと言える。

いつも「彼を喜ばせたい、もっと好かれたい、嫌われたくない」という一心だった。

相手にとって「体の相性がいい」と思われれば「離れたくない」存在になれるし、「他の女性としたい」と思わなくなるだろう、なんてことも考えていた。

だから巷に溢れている「彼を虜にするテクニック〇選!」だとか「彼に浮気を疑われるかもしれないセックス」などと謳っている記事や本を読み漁り、いわゆる「床上手」になれるような努力もした。必死か。

ネットで視聴できるセクシービデオなどもたまに観る。それらには男性目線のものが多いと感じる。「そんなポーズ、絶対しんどいでしょ」「女優さん、どんな体幹してんの?」「めちゃ痛そう……」「いや、そんなの気持ちよくないだろ!」と心の中でツッコミながら。

私が理想として想い描く、愛情が感じられるような、ゆっくりと深くひとつに繋がれるようなセックスは、その画面上にはなかった。

私の理想とはかけ離れたものなのに、「こういうAV的なセックスが世間一般の男性の望みなんだろう」、「こういう女性の反応が喜ばれるんだろうな」と勝手に学んでもいた。

いつも「嫌がるフリ」と「気持ちいいフリ」

私がSっぽい性格の男性に惹かれるということもあってか、セックスの雰囲気になったら、いちいち流れを中断してまで「性的同意」を得ようとしてくれる人はあまりいなかったし、さっさと服を脱がせながら押し倒してくる人も多かった。

私も私で、キスから先へ進む時には、いつもわざと嫌がってみせた。女性の恥じらう姿に男性はそそられるものだろうと思っていた。つまり、演技をしていた。

よく考えてみれば、キスまでは積極的だったのにその先は途端に嫌がるとかおかしいだろ。嫌がりつつも「しょうがないなあ……いいよ」と受け入れることが喜ばれると思っていたから、ソレがお決まりのパターンだった。

嫌がるフリをすることに慣れてくると、たまに本当に嫌がっていると思って止めてくれる男性もいた。そんなときは「いや、止めんなよ、そのままガッと押し倒してくれよ」なんて思ったりもした。

嫌がるフリをしているだけで本音ではやる気マンマンだから、アレ?と逆に困ってしまい「本当はしたいよ」と、恥ずかしがりながら白状することもあった。これはこれで喜ばれるのだが、どこまでも男性目線でセックスをしてきたんだなと思う。

「こういうのが好きなんだろう?」という勘違いからなのか、本当にそういう嗜好だったのかわからないが、ひどい言葉使いで罵られたり、縛られたりすることもあった。

珍しい体位を次々と試されて、運動不足も相まってあちこちの筋を痛めたり攣ったりと、しんどい思いをしたこともある。ものすごく激しく動かれたり、「ちぎれるぞ!」ってくらいに、乳首をめちゃくちゃ強くつねられたり。

ただ痛いだけで、ぜんぜん気持ち良くない。

そんな体位はいらんねん。正常位が1番いい。

本当は止めてほしいのに「ここで止めたら相手を傷つけるかも」、「せっかく盛り上がっているのに萎えてしまうかも」と考えて、そのまま我慢して受け入れてしまった。

翌日には皮膚のあちこちがヒリヒリして痛かったり、擦り切れて血が滲んでいたりすることもしょっちゅうだった。

ムードを壊してはいけない。しらけさせたくない。嫌われたくない。好きな人に喜ばれたい。求めてもらえることが嬉しい。このくらいなら大丈夫。私がちょっとだけ我慢すれば……。

そんなふうに、許容範囲はどんどん広がっていってしまった。喜ばれると信じて、痛みを我慢して感じている演技をすることもあった。

それまでさんざん気持ちいい演技をしているのに、途中で「つらい……」と言いだすことも、終わったあと「ふー、かわいかったよ」と満足そうにしている相手に「あのね……」と言い出すことも、怖くてできなかった。

デートの帰り道「実は……ちょっと痛かった」と言えたらまだいい方で、最後まで言うことができずに「こんなプレイも好きな変態女」のままで別れた相手がほとんどだ。

今からでも彼らを拉致して脳の記憶の改ざん手術をしたい。

相手に求められることを喜びとしてしまい、相手の欲求に応えることがセックスの目標になっていた。自分の体を大事にすることや、自分の気持ちを伝えることなんて、全くできていなかった。

結局私は、相手に嫌われたくなくて、自分の本音に向き合うことから逃げていた。相手のことも、自分のことも、全然大事にできていなかったのだ。

それは男性の勘違いをますます助長させ、更なる被害者を生むことにもなっていたかもしれない。

昨今の話題になっている「性的同意」にまつわる課題は、こういうすれ違いや我慢、勘違いが、複雑に絡み合っているように思う。

「言わなくてもわかるだろう」をやめて、言葉で伝え合う

もし私がどこかで勇気を出して、ちゃんと言葉にして伝えられていたら、受け止めて優しくしてくれた人はいたのだろうか? 

嫌われたくないからではなく、自分の体を1番に考え、してほしいこと、してほしくないことをしっかりと話し合うことができていたら、お互いにとって本当に気持ちのいいセックスができていたんだろうか?

素直な自分の好みで言えば「Sっぽい性格なのにセックスは紳士的で優しい」なんて人がいたら最高だと思う。お客様の中にそのような方はいらっしゃいませんか?

私はなんてバカだったんだろう? 今になって「あの時ちゃんと言えばよかったな」と、たくさんの場面を思い出す。

これを読んでいる人に、もし相手の意思を確認せずに「多少強引なくらいがいいんだろう」「喜んで受け入れてくれてるように見える」と思ってセックスをしている人がいたら、今すぐ思い改めてほしい。

私がそうだったように、もしかしたらパートナーは、あなたのことが好きだから、いろんなことを我慢しているのかも。

夫婦でも、恋人同士でも、性的な行為をするのには同意が必要なことはもちろんだ。

「言わなくてもわかるだろう?」となし崩しにするのではなく、きちんと大事なことを言葉にして伝え合うことで、どれだけお互いに信頼が生まれ、愛を感じられるか、考えてみたい。

また、これはセックスにおいてだけではなく、生活の中の全てにおいても言えることだと思う。

些細な言動が相手を傷つけてしまうこともあるかもしれない。でも、丁寧に言葉を選び、気持ちを伝え合うことができていたら、物事がもっといい方向に変わっていたかもしれない。

相手を大事に思っている気持ちやねぎらいの気持ち、好きだからこそ嫌われたくないと思ってしまう気持ちも含めて、伝えることが大事なのだと今では思う。

そして自分の「気持ちいい」に正直になることが、自分のカラダと心を大事にすることでもあるし、お互いにとっていいセックスに近づけるのではないかと信じている。

おしまい

「わたしのカラダは誰のもの?」

私のカラダは私のものに違いないのに、自分を大切する気持ちが、パートナーや誰が決めたかもわからない社会の声にかき消されてしまうことがあります。

ランドリーボックスでは、「〜らしさ」といった、世の中の当たり前に囚われずに、自分の人生とカラダの自己決定ができる社会を目指し、本特集をお届けします。

自らのカラダとココロをしっかりと自分の手で抱きしめられるように。
そして、私たちと、私たちを取り巻く愛すべき人たちが健やかに過ごせるように。

本特集に際して、「性的同意」にまつわる実態を把握するためのアンケートを実施しています。

みなさんのご意見や体験談をお寄せいただけますと幸いです。アンケートへの回答はコチラから。

New Article
新着記事

Item Review
アイテムレビュー

新着アイテム

おすすめ特集