イラスト=斉藤ナミ

ここ最近、体重計が人生史上で最高の数値を叩き出し続けている。

体重増加に伴う、今までに味わったことのない体の感触。猫背で前かがみになると、腹と腹が重なり肌が触れ合っているのを感じる。これはきっとあれだ。

 THE 三段腹。

イラスト=斉藤ナミ

胸も重力に打ちひしがれてしょんぼりしている。もともと小ぶりだったが、今や夫の方がわたしよりも巨乳だ。

それに、オタクで座りっぱなしの私の人生を長いこと甲斐甲斐しく支えてくれたお尻は、つぶれにつぶれて縦長に垂れ下がっている。感謝してもしきれないし、心から申し訳ないと思っている。

目の下のクマや、肌のたるみ、ほうれい線も気になるし、首の皺も目立ってきた。

…って、もう全身じゃないか。そう。30代も終盤に差し掛かり、俄然あちこち気になるようになってきたのだ。

「大事なのは内面だ」それもそうだけど

痩せたい。ウエストを鍛えたい。胸もお尻も、キュッと上を向かせたい。目の下のクマをなくしたい。首の皺をなくしたい。

首ってどうやってトレーニングしたらいいの? 日々のマッサージ? ええい、まどろっこしい!「首の皺 美容整形」そうやってすぐネット検索をする。痛そう…。やっぱりトレーニングでなんとかならないかな。

そんな容姿にまつわる悩みを吐き出すと、返ってくる言葉は「気にしなくていい」「ありのままでいい」「歳だからしょうがない」「大事なのは内面だ」などなど。

まぁね。それもそうだと思う。ーでも、それってどの程度?

食べることが大好きなのに、食べることを楽しめない

私は食べることが大好きだ。人生の楽しみは美味しいものを食べることだと思っている。とにかくパンが好きで、長年「パン子」というペンネームで活動していたほどだ。

美味しいものを食べるために頑張って働いている。小麦とシーフードに魂を捧げていると言っても過言ではない。

普段はそんなにたくさん食べないけれど、1カ月のうちの排卵期と生理前は、胃が領域展開してブラックホール状になり、食べても食べても永久に食べられるのだ。排卵期と生理前ってそもそも1カ月の半分やないか。それでもギリギリの均衡で長年プラマイゼロを保っていた。

その食欲が40代を目前にして、需要と供給のバランスまで壊しはじめ、とち狂っている。美味しそう。食べたい。でも、また太ってしまう。これ以上太りたくない。せっかくかわいい春服買ったのに着れなくなっちゃう…。一口ならいいかな。あともう一口だけ。

我慢できずに食べてしまい、自分の意思の弱さに落胆する。あたしゃダメ人間だ。

食べることが大好きなのに、罪悪感を感じながら食べるなんて最悪じゃないか。せっかくの美味しい食事を、100%幸せな気持ちで楽しめないなんて、もったいなさすぎる。

食べるのと同じくらい、ダラダラするのも好きだ。ゲームをしたり、本を読んだり、映画を見たり。家の中でゴロゴロしながら美味しいものを食べていたい。あぁ、なんて幸せなんだろう。

「ありのまま」の完全敗北

でもその幸せを堪能しすぎてしまうと、太ってしまう。美味しいものを無限に食べ続け、運動もしないでダラダラしているなんて、太るに決まっている。そんなの小学1年生のうちの息子にだってわかる。

「ありのまま」にも限度がある。「ありのままでいい」って言葉だって、だらしない生活を推奨しているわけではないだろう。エルサだって隠していたことが「魔法の力」じゃなくて「三段腹」だったら、あんなふうにかっこよくバーン!と歌って踊れていただろうか?

大事なのは中身なのはわかるけれど、本音では、美しくありたい、若くみられたい、モテたい!と思ってしまう。

オシャレも好きだ。たくさん稼いで、好きなブランドの靴や服やバッグを買うのが幸せだ。海外ドラマの『セックス・アンド・ザ・シティ』はセリフを覚えるほど何度も観た。どのキャラのどのアイテムが、どのブランドの何年の商品か分かるほどファッションも大好きだ。

でも私のずっしりとした体で、マノロ・ブラニクのパンプスは履きこなせない。長い時間ヒールで歩くと、膝と腰にくるから。それに、仕事の現場で安全靴に履き替えて、夕方履いて帰ろうとすると、膝にくるどころか、足がむくんでそもそも入らないのだ。

仕事帰りに友達と会う約束をしていたのに、コッペパンにしか見えないずんぐりむっくりした安全靴のまま、おしゃれなカフェで過ごすことになってしまった。「ありのまま」の完全敗北だ。

ヒールの高い靴たちを箱にしまって、お別れをした。

映画のヒロインみたいに振る舞ってみる

そんな中、先日『アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング』という映画を観た。ぽっちゃりしていて、自分の容姿に自信がない女性が、ある日「絶世の美女になった」と思い込むことで、仕事も恋も全てがうまくいく、という物語だ。

衝撃を受けた。そうだ。私、こうなればいいんじゃないの?

ウエストが太くたって、肩周りが大きくたって、11号、13号のサイズの服を着こなせばいい。ふくよかなスタイルだって、堂々とシャツインして街を闊歩すればいいんだ。

自信が体から満ち溢れている女性はかっこいい。それこそ本物のような気がする。やったね!これからは、好きなものを好きなだけ食べられる!

すぐに真似してみた。

イラスト=斉藤ナミ

結果。ダメだった。

私は近所のスギ薬局でさえ、シャツインして歩けなかった。みんなに私の下っ腹を「うわ、ぽっこりしてるのにシャツイン?やば…」と、思われているような気がしてしまうのだ。

とても恥ずかしくなって、すぐにシャツの裾を出して買い物の続きをした。

自分に基準がないから、一般的な「美」を求めてしまう

ありのままの自分でいいのに。ぽっちゃりしていても、ガリガリでも、関係なくオシャレは楽しくて、幸せなはずなのに。どうしてそれではダメなのか?

結局は、自分に自信がないことが全ての原因だ。

自分に自信がないから、自分が思う美しさに基準がなくて、「世間一般で言われている美」に当てはまっていないといけない、と思っているのだ。

この気持ちがある限り、ありのままではいられない。ありのままでいい、って心から思える人は、きっと自分に自信がある人だ。

顔で笑って心で泣いていた、子どもの頃の記憶

肌の色が地黒なこと、髪の毛がくせの強い天然パーマなこと、男の子よりも背が高いこと、家が貧乏でいつも同じ服を着ていること。自分の外見が恥ずかしくて、子どもの頃からずっと気にしていた。

無邪気な子どもたちは残酷で、私のことを「チリチリ、麩菓子」というあだ名で呼んでからかった。傷ついている姿を見せたら終わりだと思っていた当時の私は、「麩菓子の腕、美味しいよ!食うか?食うか?」と笑って言い返した。

心では泣いていた。

全然傷ついていない。外見なんて気にするタイプじゃない。私は可哀相じゃない。そういうそぶりを見せて、自分にも言い聞かせて強がっていた。

でも本当はクラスのかわいい子、オシャレな子が羨ましくて、猫背にして少しでも小さく見えるようにしていた。

大人になって、自分で服を買えるようになった今でも、猫背のまま、美しさの基準もあの頃のままで、クラスの可愛い女子たちが、ファッション雑誌のモデルや芸能人に替わっただけ。服を買うのが好きなのは、わかりやすい正解を手に入れることで、世間に認めてもらえる気がするからかもしれない。

私はただ他人の目を気にしているだけの、安っぽい人間なんだ。

あの頃の私が、ちゃんと泣いて傷ついて、からかうのを辞めてもらっていればよかったのかな。

息子が「ありのままでいい」のヒントをくれる

このままではダメだとやっと気づいた。本当の美しさを見つけていかなくちゃ。

その先に、本当の「ありのままでいい」が、ある気がする。

「ママ、今日の服かわいいねー」長男は、私が新しい服を着ると必ず褒めてくれる。私が落ち込んでいると、自分の少ないお小遣いから、お花を1本買ってきてくれたり、エクレアを買ってきてくれたりする。

そんな彼には、生まれつき歯茎にほくろがある。それを気にして、あまり大きな口を開けて笑わないようにしてることを私は知っている。

彼の美しさは、心が繊細で、とても優しいところにある。それが外見にもあらわれていると私は思う。歯茎のホクロなんて、そんなこと気にしないで大きな口で心ゆくまで笑ってほしい。

息子に思う「ありのままでいい」が、きっとそういうことなのかな…と、今は少し思っている。

いまだに猫背が治らない私は、日々のパソコン作業も併せて肩こりがひどい。37歳で四十肩になってしまったし、ほぼ治った今でも無駄な肉がついてもったりしている。

肩パッドブームもまだまだ再燃しなさそうだし、まずは猫背と肩こりを直していこうかな。

つぶれて不憫な私のお尻たちのためにも、座ってばかりいないで少しは運動をしながら、自分なりの美しさを探していきたいと思う。

とりあえず「エクササイズ 初心者 楽ちん」と検索してみた。

おしまい

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