「仕事に、子育て、家事をされて、さらにオンラインサロン、文章、イラストも……一体どうやって時間のやりくりされてるんですか?」とよく聞かれる。
その質問に答えるのにいつも困る。なぜなら、私は子育てと家事を満足にやれてるとは言えないから。
仕事については、ここでは触れないでおきたい。ほら、お仕事関係でも見てくださってる人がいるからゴニョゴニョ……。
掃除は汚くて不快になってきたらやる。洗濯は洗濯機がやってくれる。朝ごはんは前日の残り物か、パン。お昼ごはんは、私はレンチンパスタさま。子どもたちの栄養は偉大なる学校給食さまに全部お任せしている。そして、夜もその御加護が続いてると信じているので、夜ごはんはテキトーに何か作る。
たいしたことをしていない。生きられればなんでもいい、ぐらいに思ってる。果たしてこれで家事していると言えるんだろうか。
ホルモンの何かしらの仕組みで母親化するはず?
もうひとつ、よくわからないのが、子育て。これが今回のもやもや。
まさか、こんなにずっと親になれないとは思っていなかった。子どもを産んだら、自動的に母親的な人間になるんだと思っていた。
だって、「子どもができれば自然とわかるよ」っていろんなところで聞いたし。
なので「へー。私も今はこんなだけど、きっと子どもができたらホルモンか何かの仕組みで大人になって、子どもが愛おしくてたまらなくて、自分なんて二の次で、何を差し置いても子どもが大事で、それが私の幸せ! みたいになるんだろうな〜。うふふーん」と思っていた。
しかし、妊娠してもその気配がない。あれ?おかしいな。
ゲームで徹夜しちゃうし、なるべくお風呂は入りたくないし、卑怯な手を使ってでも夫が会社でもらってきたちょっといいお菓子は一人で食べちゃうぞ?
まぁ、でも、そうは言ってもまだお腹の中だしね。対象物が出てきてからが本番だよね。それから徐々に親になっていくんだよね。
ところが、彼らがお腹から出てきても、一向に始まらない自動母親化。あれぇ〜?そのまま10年がたってしまった。長男10歳。次男6歳。それなのに全くイメージしていた親になっていない。
周りがみんな大人に見える。自分はまだ10代?
いまだに自分が一番だ。自分のことしか考えていないどころか、文章にできないほどに恥ずかしい中二病がときおり顔を出し、各地に消せない焼け跡を残している。もしや中身だけはまだ10代?
周りを見渡すとみんなが、ちゃんとした母親に見えた。息子たちが赤ちゃんの頃も、幼稚園の頃も、小学校に入ってからも。
日中は毎日、公園や子育て支援センターに子どもを連れて行く。よその子どもも可愛がる。子どものために栄養のあるご飯や、オーガニックなおやつを作る。子どものために友達の親と仲良くする、子どもの好きな遊びをして負けてやる。自分のことより子どもを優先して、時間を割く。
大人すぎる。
私は、公園なんて行きたくない。家で本を読んだり、ゲームをしたり、絵を描いたりしていたい。知らない人に「お子さん何歳ですか?可愛いですねー」なんて話しかけたくない。知りたいと思わないし、本当に可愛いと思う子なんてまれにしか見かけない。わざとUNOで負けるなんて絶対したくない。オーガニックのおやつなんて高いしまずいし買いたくない。食べたことない美味しそうなものは、まず自分が食べたい。
子どもが話しかけてくれているのに「今仕事中だから、ちょっと待ってね!」と、ピシャっとしてしまう。
なんかのエラーで私だけ親になる機能が携わらなかったのだろうか?
ゲームも楽しいのだけれど、それよりも今は、仕事が楽しい。ありがたいことに、文章を書いたり絵を描いたりして少しずつ報酬をもらえるようになった。今まで「◯◯君のママ」、「◯◯さんの奥さん」と言われていたのが、最近「ナミさん」と、また自分の名前で呼ばれるようになってきた。
自己承認欲求の権化のような私は、調子に乗って浮かれまくっている。「私自身を必要としてくれてる!」「絶対に期待に応えたい!」「もっと認められたい!」お金のためではなく自分のアイデンティティのために必死になっているから、タチが悪い。これまでより、なおのことパソコンがソウルメイト状態となっている。
母性がないわけではないらしい
かといって、子どもたちを愛していないわけではない。できることなら彼らの望みはすべて叶えてやりたいと思うし、子どもを不幸にする要因はすべて取り払ってやりたいと思うし、少しでも怪我をしたり、病気になったりすると、私の命をいくら削ってもいいからすぐに治してやりたいと思う。
「となりのトトロ」を観ると「そうだよね、ほんとはサツキも怖かったんだよね、お母さん死んじゃうかもって、でもお姉ちゃんだから我慢してたんだよね、あああああああああああ」と吐くほど泣くし、なんなら「アンパンマン」でも泣く。
最近なんて、次男が国語の音読の宿題で「サラダでげんき」(*)を読んでいるのを聞くと、毎日泣いてしまう(*風邪で元気がないお母さんに、娘のりっちゃんがサラダを作ってあげるお話)。
彼らのサイズアウトした服などを整理する際はいつも、それを着ていた彼らを思いだして泣いてしまい、3日くらいかけてようやく決意する。どうやら母性がまるっきりないわけでもなさそう。
なのに毎晩、いつまでも寝ないでベッドで遊んでる子ども達に「いつまで起きとんじゃいー!早よ寝んかこるるるらぁぁあ!!」とヤクザのような巻き舌で怒り散らしている。大袈裟でなく、本当に、文字通り、毎晩。
早く寝ないと朝起きられないからというのはもちろんだけれど、早く自分一人の時間にありつきたいからだ。
そして子どもたちが寝た後に「今日も失敗してしまった…」と、寝顔を見て泣く。まだポテっとしたパンみたいなかわいいフォルムの手を握って懺悔している。
どうしてもっとうまくやれないんだ。ついこの前まであんなに小さくて、私にしがみついて「ママといるの!」と幼稚園バスに乗れなかった長男も、パパが帰ってくるのを玄関でずっと待っていた次男も、いつのまにか大きくなってしまって。
本当はもっと優しくしたいし、毎日の成長をじっくり見ていたかった。「ママー、今日ねー?」「ママー、あーそーぼー?」と話しかけてきてくれるのに、もう少し原稿を書きたくて「鬼滅の刃」を見せて誤魔化してしまう。
きっと、あっという間に友達と遊ぶようになり、あっという間に一緒のベッドなんかでは寝てくれなくなるのに、何やってんだ!今さっき怒鳴りつけて寝かせた子どもたちこそ、私自身を必要としてくれてるのに。
そして大反省したくせに、寝て起きるとまた忘れて、自分優先で生きてしまう。
…どういうこと?確かに私、昨日の夜泣きましたよね?二重人格?
結局、夜中に反省したところで、翌日バキバキ仕事してるうちにあっという間にいつもの自分に戻ってしまっていて、夕飯作って、食べさせて、食器を洗って、お風呂に入れて、また再び「早く寝なさい→反省」の繰り返しだ。
どうしたらいいんだこのポンコツな親……。
2億択くらい選択肢ある?正解がわからない
先日、わけのわからないところで次男がキレた。
「今日このマスク洗おうね。だから、今日はこっちの使い捨てのマスクで行ってね」
その時は「うん。わかったー」と言っていたのに、玄関を出るときになって「あ、ほら忘れてるよ」と使い捨てのマスクを渡そうとすると、キッっと私を睨みつける表情で「うるさいなっ! わかってるよっ! すればいいんだろ! すれば!」と声を荒げながらマスクを取ったのだ。見たことのない次男を見てとても驚いてしまい、時間が止まった。本人も、自分の言動に驚いたようだった。
そんな言葉遣いをしてほしくないこと、どうして突然怒り出したのかなどを尋ねてみると、しばらく睨みながら黙っていたが、再びだんだんと苛立ちが募ってきたのか「うるさいっ!勝手だろっ!うわーーーん!」と、怒りながら、今度は泣き出してしまった。
「どうしてなのかわからないっ どうしたらいいかわからないっ えーん、ごめんなさい」と泣いてしまった彼を、そのときはただ抱きしめることしかできなかった。
自分の中に芽生えた何かの感情に、頭が追いついていないのかもしれない。どうして腹が立つのか。ママになんでひどいことをしてしまったのか。この感情をどうさばいていいのか。わけがわからなくてパニックになったのかもしれない。聞いても「よくわかんない」としか返ってこないし、登校の時間になってしまい、真相は謎のままになってしまった。
どうしたらいいかわからないはこっちだよ……。
もしかしたら、私が仕事ばっかりしてるせいなんだろうか。言いたいことを言えないで我慢していたのが爆発したんだろうか?どうしたらいいかわからない。わからないことだらけだ。
人間を育てるなんて初めてだ。長男と次男は、まるで違う性格だし、子育ての実績も経験も全然足りていない。そもそも長男にもどうしたらいいかわからないところがたくさんあり、その結果、今、彼がどうなっているのかもわからない。神様は親に、子どもの出来の途中経過を、随時お知らせしてくれたりしないのか?
よくわからないのだ。これで合っているのかが、わからない。これが子育てって言えるんだろうか。全然思ってたのと違う。
もっと、道筋はわかりやすいと思っていた。その2択なら、当たり前にこっちだろう、というような。それを間違えると、翌日にはすぐ子どもがグレて、あ、間違えたのね、じゃあこっちね、と修正すれば、当たり前にいい大人に育っていくものだと思っていた。
でも全然、簡単じゃない。めちゃ難しい。2億択くらい選択肢があるような難しさ。ずっと答えがわからないし、答え合わせは10年後な感じ。
私はこんなに未熟でいいのだろうか?「子育てしながら自分のことを認めてもらえる仕事もしたい」なんて分不相応な願いなのだろうか?私がもっと大人になって、子どもにたくさん時間を割いていれば、子育ての正解がわかるのだろうか?
子どもがまだ小さい頃は、一日一日をなんとか「死なないように」乗り越え続ける毎日が「子育て」だった。
今は「子育て」がなんなのか、わからない。ご飯を作れば自分で食べるし、着替えも、トイレも、お風呂も自分でできる。そう簡単には死にそうにはならなくなったけれども、代わりに、ひとりの人間としてどう接していいかわからない場面にたくさん遭遇する。
そのたびに、どう答えればいいのか、どうしてやればいいのか、考えて考えてわからないながらも、これがいいんじゃないか?というものを、恐る恐る取り出して、差し出している。大きく間違っていないといいのだけれど。
できれば「なぜ人間は生きるのか?」なんて、私みたいに暗いことは微塵も考えたりしないで、ご飯もトイレも忘れるくらい夢中になれることを見つけて、健やかに楽しく生きてほしい。そう願いながら、一緒に暮らしている。
この子達は、こんな未熟な私に育てられて、一体どんな大人になるんだろう? あまりいい母親でないせいで、人の道を外れてしまったらどうしよう?彼らは私のもとに生まれて、幸せなのだろうか?やりたいことを我慢していないだろうか?
仕事もしたい、自分の好きなことをしたい。でも、子どもたちにとってよき母親でいたい。
もやもやしながら今日もまた「なんでまだゲームやっとるんじゃい!こるるるらぁぁあ」と、巻き舌で怒っている。思ってたのと全然違う。