この数年で日本でもクィア作品(注1)が続々と製作・公開されているが、その多くが“ゲイ”を描いたものばかりのように感じる。クィア作品と大きく括っていたとしても、そこで描かれていない存在はたくさんいる。
僕のようなノンバイナリー(注2)が日本のクィア作品において描かれる日が来るのか、そんな期待を寄せては、まだまだ追いついていない現状を目にするたびに残念に思う。
注1:クィア…LGBTQ+を含む、性自認や性的指向、性表現がさまざまな人たちの総称
注2:ノンバイナリー…男女二元論におさまらず、自分を男でも女でもない、またどちらも持ち合わせている性別のこと
“LGBT”という言葉の認知度はあるにせよ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー(特にトランス男性)が作品の中で描かれることがまだまだ少ない。
今回は、あまり描かれることが少ない存在を描いたクィア作品を紹介する。
『ミスエデュケーション』2018年
リメイク版『キャリー』や『キック・アス』で日本でも一躍人気となったクロエ・グレース・モレッツが同性愛矯正治療施設に送られるレズビアンの学生を演じている。
『ある少年の告白』でも同性愛矯正治療施設の話が描かれているが、『ミスエデュケーション』ではレズビアン、ゲイだけでなく、POC(注3)や2スピリット(注4)、足にハンディキャップを持ったクィアなどが登場する。
注3:POC…白人以外の有色人種
注4:2スピリット…第三の性と言われる、一つの身体に女性の魂と男性の魂が同時に存在すると感じる人。北アメリカの先住民の間で認められてきている
エンタメコンテンツとしてはなかなか描かれないが、確実に存在する人たちを描くことで、その人物と似たバックグラウンドやアイデンティティを持つ人たちは自分たちの存在をメディアの中で認識することができる。描かれないことで、自分の存在を社会に投影することができず、“無いものとされている”感覚に苦しむ。
僕たちクィアはこうして“生き抜いてきた”のだと感じられる
同性愛矯正治療施設に送られる人々は家族から理解されず、施設を出た後も偽りの自分で生き続けなくてはいけない苦しみやプレッシャーを背負うことになる。育った環境や家族というコミュニティにいられなくなったクィアはChosen Family(注5)を築いていくのだ。
注5:自分で選んだ家族のこと。与えられた家族のことをGiven Familyという
本作でも自分らしく生きていく決心とともに、Chosen Familyを形成していく姿が描かれている。僕たちクィアはこうして“生き抜いてきた”のだと感じられるし、自分らしく生きていくことをセレブレイトしてくれる人たちを家族として共に生きていくこともできるのだと勇気をもらえた。
Chosen Familyをより深く知りたい人はドラマシリーズ『POSE』やRina Sawayamaの『Chosen Family』をぜひ鑑賞してみてほしい。
『詩人の恋』2017年
日本だけでなく、同じアジアの中でもクィア作品は作られている。
韓国済州島に暮らす詩人のテッキ(ヤン・イクチュン)は妻との妊活に前向きになれずに悩む。そんな中、島に新しくオープンしたドーナツ屋で働く青年セユン(チョン・ガラム)と出会い、テッキのセクシュアリティが揺らいでいく。
「あなたゲイだって?」という妻からの問いに「だったらバイだと思う。女性も愛したから」と自身のセクシュアリティの流動性と向き合うシーンがある。シスジェンダー(注6)で社会から自分に課せられる“男らしさ”や“女らしさ”にさほど違和感を覚えない人たちの多くは、自分のジェンダーアイデンティティやセクシュアリティと向き合うことをしない。
それは今の社会がシスノーマティブ(注7)で、ヘテロノーマティブ(注8)がゆえに、向き合う必要やきっかけがあまりないのだろう。
注6:シスジェンダー…出生時に割り当てられた性と性自認が一致している人
注7:シスノーマティブ…シスジェンダーが標準だとする概念
注8:ヘテロノーマティブ…ヘテロセクシュアル(性的指向が異性の人)が標準だとする概念
セクシュアリティは思っている以上に流動的
そしてよく語られるのが、「異性愛者が同性愛者に惹かれるのは一時の迷いや同情からくるものだ」ということ。本作でも主人公のテッキに向けて、周りの人たちはそういった声をかける。
最終的に異性を選ぶことが“元の正常な状態に戻る”という表象をされることがあるが、ジェンダーアイデンティティや、特にセクシュアリティは僕たちが思っている以上に流動的なものだと思う。そしてそれは決してブレているわけでも、異性愛と比べて劣ったり勝ったりするものではない。
例え最後に愛した相手が異性だとしても、それは流動的に変化していった、もしくは自分のクィアな部分をさまざまな要因によって受け止めきれなかったからかもしれない。本作の最後でもそんな姿が描かれている。
『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』2020年
昨年Netflixオリジナルで公開された本作は、ハリウッド映画を中心に、これまでトランスジェンダーがどのように描かれてきたのかをトランスジェンダーの俳優、歴史家、アクティビスト、映画監督らが問題提起するドキュメンタリー。
トランスジェンダーのような存在はサイレントモノクロ映画時代から描かれており、そこでは精神異常者や狂気的な殺人鬼として描かれることが多かった。そういった表象のせいで、それを観た人たちはトランスジェンダーに対して笑いや恐怖の対象というイメージを投影してしまう。
その恐怖心は現実世界を生きる一般のトランスジェンダーに向けられ、暴力的なトランスフォビア(注9)が起こる。
注9:トランスフォビア…トランスジェンダー嫌悪
僕がこの社会に存在する意義を感じられた
僕自身、この作品を見るまでトランスジェンダーが偏った描かれ方をされたり、製作背景に問題があることに気付けなかった。
それは僕が男性と性自認していたからだと思う。僕はトランスジェンダーが置かれている現状や差別を気にしなくても生きていける特権を持っていたのだ。ところが、ノンバイナリーにトランスしたことにより、僕はトランスジェンダーに対して深い共感と繋がりを感じるようになり、同時に痛みや苦しみを感じるようにもなった。
もちろん、トランス女性、トランス男性が受けている差別や不平等なシステムと同じ境遇になったわけではないから、僕自身が彼らと同じ苦しみを受けているとは言わないが。
しかしこの作品を観ることで、共に戦う人々がいるということを感じ、先陣に立って自分たちの存在を主張し、描かれ方を改革していく姿を認識することができる。
それは同時に僕がこの社会に存在する意義を感じられることでもあった。僕はこの映画で気づかされ、救われたのだ。
クィアの当事者性が強く反映された3作品
現状、クィア作品を作っているのはシスヘテロ男性がほとんどではないだろうか。そのため偏った表象がされることも多く、女性の視点やクィアの視点が欠けた状態で作られ、当事者が本当に見たいクィア作品がなかなか出てこないことは問題である。
しかし今回紹介させてもらった『ミスエデュケーション』と『詩人の恋』の監督は女性で、『トランスジェンダーとハリウッド 過去、現在、そして』の監督はトランス男性である。
この3作品は当事者性が強く反映された作品だからこそ、シスヘテロ男性に消費されて終わるだけの作品にはならなかったように思う。
ぜひとも日本のクィア作品においても、製作陣、役者ともにクィア当事者を巻き込みながら、むしろクィア当事者がシスヘテロを巻き込みながら、より良いクィア作品を生み出し発展していってほしい。
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下記では僕がシンパシーを強く感じていた「ゲイ」「トランスジェンダー」を取り扱った作品の中から、個人的に違和感を覚えた表象について話している。