僕と妻のりえちゃんは、ともに39歳になった2012年から不妊治療をはじめた。「通いやすいから」とりえちゃんの勤務先近くにある銀座のクリニックに決めた。
そして医師に言われる通りタイミング法に3回チャレンジするも、空振り。すると医師は「そろそろ次のステップ、人工授精に進みましょうか」と切り出したのだった。
人工授精という、新たなチャレンジに乗り出した日
人工授精。なんて仰々しく、少しおっかない言葉なのだろう。
人工授精は、精液を採取し、病院で洗浄・濃縮。元気な精子だけを取り出して、それを細長いカテーテルで子宮に注入するという、不妊治療法のひとつである。
今までは排卵日に合わせて行為をいたすという、治療と呼んでいいのかわからないタイミング法にチャレンジしていたので、この高度な不妊治療に入れば子どもなんて一発でできるだろうと当時の僕は本気で思っていた。医師の提案に、「はい、お願いします!」と食い気味で返した。
そして迎えた、人工授精にチャレンジする日の朝。「じゃあ、向こうにいるから」と、りえは僕の仕事部屋のドアを閉じリビングに行ってしまった。
デスクの上には昨晩りえから渡された、円柱状の小さなプラスチックケースがある。そうか、ここに精液を入れるのか。現在、朝の8時半。これを持って10時にクリニックに行く算段となっている。
今までは欲望の赴くままに、そして突発的にひとりごにょごにょしてきたが、ワンごにょ歴30年を迎えた今日、初めて誰かに要請され、しかも妻に頼まれてワンごにょするとなると何だか緊張してきた。ダンナがサルのようにシコっているのを別室で待つ妻というのは、どんな心境なんだろう。よくよく考えると、この状況は異常だ。
とにもかくにも、このプラスチックに子ゴローを放出することだけを考えよう。すべてはまだ見ぬ赤ちゃんのためだ。集中、集中!
どんなオカズがふさわしいのか問題
と、ここで新たな問題が。それは採精時、どんなアダルトDVDを選ぶか問題。平たくいうと、どんなオカズが適当なのか?ということだ。今までだったら今日は脂っこいステーキを食べたい気分だな(洋ピン)とか、いや今日は煮魚とかの渋い系だな(和服系熟女モノ)とか、その日の気分でオカズを変えてきた。
でも今回は、我が子を愛するりえのお腹に宿さんとする神聖な儀式の第一歩。たとえ、僕が女王様にバラムチで叩かれる癖(ヘキ)があったとしても、そんなDVDを今回選んでしまうのは罰当たりなのではないか?
巨乳モノ?いや普段からりえちゃんは「胸が小さいのー」と、自身を笑っている。そんなりえの子を宿すといってるのに巨乳モノをオカズにするなんて、もうそれはりえへの侮辱行為だ。
じゃあ、どうすりゃいいんだ?
「クセの強くないものが今回の射精にふさわしい」こう結論付けた僕はクセの薄いアイドルセクシー女優のDVDをチョイスしたのだった。
そして何とか射精にたどり着きそうになるも最後に容器にINさせなければいけないわけで、プラスチックにBUKKAKEってどんな癖だよ!と果てる瞬間自分にツッコミながらも、プラスチック容器に突っ込んだのであった。
ふたり一緒に、手を繋いで
リビングに戻り、僕を待っていたりえにひとこと、言った。「おう、行こか」。これらの
時間を待たせていたことの恥ずかしさから、そうぶっきらぼうに言うしかなかった。
「え、行くって、クリニックに一緒に?」
「おう、そうだよ」
本来なら、採精したプラスチック容器をりえちゃんに渡せば、そこで僕の役目は終わりである。でもシコって渡して、はいさいなら、はどう考えたって違うだろう。不妊治療はふたりでする治療だ。
当然、僕がクリニックまでついてきたからって、子どもができる確率が上がるわけではない。場合によっては「ついてこないでよ、うっとうしい」と感じる女性もいるだろう。でも僕は「自分のできること」のひとつとして、一緒に行くのが筋なんじゃないかと思っていたのだ。
りえは「ありがとう」と微笑み、僕たちは手をつないで最寄り駅に向かった。もう片方の手はジャンパーのポッケのなかへ。「なるべく温めてお持ちください」とクリニックからの注意書きがあったので、中身が冷めないように容器を強く握りしめながら。
頑張れりえちゃん。いよいよはじまる治療
銀座のGクリニック(仮称)に着くと、待合室には女性しかいなかった。僕のような考え方はよほど珍しいのか、僕が相当ヒマなのか、付き添いで来ている男性は皆無だった。スペースを見つけ、ふたりでソファに腰を落とす。
すると看護師さんがやって来て「持って来られました?」と言うので、僕は容器を渡した。そこに日付と母体名を書いておいたのだが、僕の字があまりに下手過ぎたからか、それを見たりえちゃんは少し笑っていた。
そのまましばらく待っていると、りえちゃんが呼ばれた。いわく、卵胞の検査をするというのだ。これは子宮内が人工授精するに適した状態であるかを確かめるもので、30分ほどかかるという。
りえちゃんが検査に入ってしまえば、ロビーに野郎は僕ひとりになってしまう。しかもここは不妊治療クリニックだ。なんとも居心地が悪くなるだろうと予想し、検査室に消えるりえちゃんに「ちょっと外、ぶらぶらしてくるわ」と言って、普段あまり寄り付かない銀座の街に出た。
30分ほど街を徘徊しクリニックに戻ると、すでにりえちゃんは検査を終えていて卵胞検査は合格だったらしい。しかしりえちゃんはこれからが本番で、やっと人工授精を受ける。そこまで1時間半も待たされた。
その間、僕はiPodを取り出し「芸人のポッドキャストがすごくおもしろいんだ。一緒に聞こう」とイヤホンを片方ずつして、ふたりで聞いた。笑いをこらえながらクスクスするふたりの様子は、殺伐としたクリニックではなくリビングにいるようだ。
こうやって僕らは戦う。笑いながら戦うんだ。世の中、何だって寄りで見れば悲劇だが、引きで見ればお笑いだ。
やっとりえちゃんの名前が呼ばれた。これからりえちゃんは、子宮内に精液を注入される。どんなに痛かろう。というか僕の精子は、無事卵子と結合するのだろうか?俺の子ゴローは人見知りならぬ、〝卵見知り〟しないだろうかと案ずる。
「頑張ってね」、施術室に入るりえちゃんにそう声をかけると、こちらを振り向きながら不安そうな笑顔を返してきた。本当に、頑張ってね。
つのる焦り。でもふたりならきっと大丈夫
この日、りえちゃんはスマホのメモにこう書き記していた。
丸っこい、幼い字で、ラベルに私の名前を書いてくれていた。
慣れない銀座で30分時間をつぶしてくれて、病院でも1時間半も一緒に待ってくれた。
正直、もうそれだけでいいと思った。
きっと結果がともわなくても、これからふたりだけでも大丈夫だと思った。
それから僕らは4カ月間、人工授精にチャレンジしたが、4回すべて失敗に終わった。人工授精、という仰々しい四文字。これをやれば簡単に妊娠すると思っていた。
この間に季節は変わり、2013年を迎えようとしていた。ふたりはともに40歳となり、どこに出しても恥ずかしくない中年と化していた。
やばい、本当に時間がない。絶望と焦りが、徐々にふたりを襲いつつあった。
・これまでにかかった費用 11万9910円(初診、基本検査、通院7回/うち人工授精4回)
・これまでにかかった時間 7カ月
(次回に続く)