写真=本人提供/Laundry Box

人それぞれ、絶望から立ち上がる方法は違うかもしれません。どんなことに絶望しているかという絶望の種類にもよります。

例えば仕事だったら、ミスをして絶望しても、リトライしてプロジェクトを成功させれば、失敗は学びになると思います。

しかし、「リトライがない」こともあります。

今回のコラムでは、私が経験した流産や死産といった命の喪失、リトライがない場合の話をしたいと思います。

長い不妊治療と3度目の妊娠からの死産

私にとっての絶望というと、2011年の死産の経験が挙げられます。

7カ月検診のとき、「お腹の赤ちゃんが動いていない」と告げられました。看護師さんの「ご家族に迎えに来てもらうから連絡先を…」という声が遠くに聞こえ、私はその場に倒れてしまいました。

長い不妊治療を経て3度目の妊娠からの死産。赤ちゃんとの暮らしだけが希望でした。

「赤ちゃんが私の中で死んでしまったのに、自分だけが生きてご飯を食べているなんて許せない」「私が赤ちゃんの変化にもっと早く気づいていれば赤ちゃんは死なずにすんだのに」

何もかもが原因のように思えて、私は自分の選択を責めました。

手元に残ったエコー写真とともに綴られた日記には、「早く会いたいね」という文字。

「希望は消えた」そう思いました。

あれがまさに「絶望」だったのだと思います。いっそのこと「10年先にタイムスリップしたい。この出来事を忘れて封印して、周囲も私のことなんて忘れてほしい」とさえ思っていました。

優しい言葉をかけてくれた人、何も言わなかった人。どれも覚えているけれど…

2021年9月、あのときの死産から10年になります。

私は今、養子を迎えて家族3人で暮らしています。子育ての日々が宝物。そうはっきりと言える人生を送っているなんて、想像すらできませんでした。

この10年の間、私は死産の出来事を忘れることはないし、周囲と関わりを持ち、時には助けてもらいながら生きています。10年前に思い悩み考えていた“封印”とはまったく違った人生を歩んできた結果だと思います。

Photo by Annie Spratt on Unsplash

死産を経験した当時、産院では赤ちゃんとの対面や記念の手形を残すことができました。ただただ泣いている私のそばに助産師さんがそっと寄り添ってくれたことも、ずっと忘れることはありません。

しかし、退院後はそのようなケアはなくなります。

母乳で胸の皮膚が破裂しそうだったときは産院にヘルプを求めましたが、「死産の方はちょっと…」という回答でした。

お産をした病院に断られると一気に行く先がなくなります。

赤ちゃんが亡くなった悲しみを抱えながら自分のカラダの相談先を探す…。しんどい状況の上に、さらにしんどいことが重なりました。

やっとの思いで見つけた小さな助産院に電話をすると、とても優しく母乳を減らす対処方法を教えてもらいました。そして、死産したことを告げると、返ってきたのは「それは大変でしたね」という労りの言葉。その言葉を聞いたとき、私は「やっと、やっと細い糸でつながったんだ」と安堵しました。

また、役所にお産の届出を出すことも必要だったため、「子ども課」の窓口へ。窓口の人に「もう出産したんですか?」と聞かれ、「死産したので…」と答えると無言でした。行政の人ですらどう対応していいのか分からなかったのでしょう。

「対応不可」や「無言」、そして「それは大変でしたね」という言葉。傷ついた人への対応はさまざまでしょう。

しかし、ほんのひとことでも温かい言葉をもらえたら、心に空いた大きな穴を埋めていくのではないか。些細なことかもしれませんが、そんな積み重ねが私自身の回復の手助けになっていたのだと、今思います。

あたたかい言葉と、ただ寄り添う対応に救われた

Photo by David Mao on Unsplash

もう1つ、私の大きな救いになったのは産前産後の訪問ケアでした。

これは、妊娠中つわりがひどいときに利用していた行政のサービスで、委託された民間団体のスタッフが自宅に訪問して掃除や料理をしてくれます。

産後、この訪問ケアを再び依頼したことがありました。

でも、部屋には赤ちゃんがいないので、死産したことを話さなければいけない。なかなか言い出せずにいると、スタッフの人がいつものように私のことを「お母さん」と呼びました。

これはもう言わなければ…。そう、体を固くして覚悟しました。

「私、もうお母さんじゃないんです。先週死産して…」

「私はお母さんじゃない」「死産した」。そのふたつを、自分のなかではっきりと言語化したとき、私は涙が止まりませんでした。

自分の気持ちをコントロールできず、私はその場にしゃがみ込んで泣き続けました。

60歳くらいのスタッフの人は、死産と聞いたとき驚いた様子でしたが、泣いている私の肩をなでてこう言いました。

「あなたは今もお母さんだと思うよ。もしよかったら赤ちゃんのお名前教えてくれる?」

誰も…誰もそこには触れてくれなかった。死産を経験してから初めて、赤ちゃんの名前を聞いてくれたのです。

やっぱり亡くなった赤ちゃんの話をされるのは、一般的には多くの人が配慮する故に避けてしまうことだと思うんです。

でも、私のお腹のなかにいた赤ちゃんは誰にも会わずに死んでしまった。だから、名前を聞かれたときは、たしかに存在していた赤ちゃんの存在を認めてもらったようで、私は嬉しかった。

それから週に2回、同じスタッフの人が訪問してくれました。私はほとんど寝込んでいたので、会話をすることは少なかったのですが、出汁から作った温かいうどんを用意してくれたりと、ひしひしと優しさを感じていました。

2カ月ほど経過したある日、スタッフの人に「だいぶ顔色がよくなった、最初は本当に心配したわ」とホッとした顔で言われました。

そういえば、リビングで会話をすることも増えている。「誰にも会いたくない」と思っていたのに不思議。いつの間にか信頼関係が作られていたことに気がつきました。

周りの人に助けられて、私はここまでこられた

もし、行政に産前産後の相談窓口があったとして、「私、死産して困っているんです」とわざわざ出向いて相談できるかというと、そこには大きなハードルがあります。

何か悲しい事件や事故が起きると「相談すれば良かったのに…」と周囲は嘆くと思います。しかし、あまり理解できないかもしれませんが、助けを求めること自体、本人には戸惑いや躊躇があると思うんです。

そのため、窓口で対応する人・相談を持ちかけられた人には、相談者は100パーセント困っていて、勇気を持って相談している背景があることを想像してほしいと思っています。

その点、産前産後サービスは相談サービスではないので、悩んでいなくても家事育児の補助として依頼が可能です。悩みがあっても、気が向いたら好きなタイミングで話せばいい。産後うつという深刻な課題もあるので、こういった取り組みは行政で広がればいいなと思います。

私は、SOSは出さないと埋もれてしまう。ひとりで悩む必要はない、と心の底から思っています。

なぜなら、孤独が悩みを解決することなんてないと思っているからです。

誰もがSOSを出しやすい環境も大事ですよね。そして、それを受け取る側には否定せず、キャッチする包容力も必要です。

悲しみにくれる人を前にすると、早く元気になってほしいがゆえ励ましの言葉をかけてしまいがちですが、本人の回復には想像以上の時間がかかりますじっと見守ることもときには大切でしょう。これは放置や孤独とは違う、温かい見守りだと思います。

私自身そういったプロのさまざまなケアに触れたことは、絶望の中ではありましたが貴重な体験となり、現在の不妊ピア・カウンセラーとして活動するときの軸にもなっています。

現在の私を見て、「どうしてそんなに前向きになれるの」とクライエントさんに聞かれることがあります。

本当に少しずつ死産から1年、2年、3年と周囲との関わりで自分の運命を受け入れられるようになっただけなんです。そして、今この瞬間、絶望のなかにいる人のSOSを受け止めることが、過去の私を支えてくれた人たちへの恩返しと思って活動しています。

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